2013/07/24

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.7.24)

7月19日の短歌教室用として下記の3首を提出した。
 
 今回は、自然の移り変わりを木々に託して読んでみた。

(1) 寒明けのモクレンの花孤高にて気位(きぐらい)もちて天に散りそむ

 木蓮は3月初めごろに大きな花を天上につける。朱モクレンと白モクレンがあるが朱モクレンのほうが一般的なようである。一本の木にたくさんの花をつけるが、私だけの感じかもしれないが、一つひとつの花を見ると孤高で気位が高いように見える。1~2週間咲いた後に、はらはらと天上に花びらを散らしていく。
白モクレンの木
白モクレンの花












(2) 花すぎて鎮守の杜の大クスは静もりてあり梅雨近からむ

 楠の花は5月から6月ごろに小さな目立たない花をたくさん咲かせる。虫媒花なので、花期にはたくさんの昆虫が寄ってきてなんとなく騒々しい感じがするが、その花期をすぎると静かな感じに戻る。そうすると梅雨も間近である。
鎮守の杜とクスの木


クスの花












(3) 木漏れ日にイワナ耀(かがよ)い奥秩父入川渓(いりかわたに)に夏は来にけり

 私が住んでいる埼玉南部の平野部から見ると奥秩父はよっぽどの山奥の感じがして夏が来るのもかなり遅れるのではないかと思ってこの様に詠んでみた。

渓谷の木漏れ日

イワナ












2013.7.24
  Yukikaze 


2013/07/05

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.7.5)

 今日、7月5日(金曜日)に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第31回目の短歌教室があった。

(1) 南溟に水漬きて還らぬ兵の墓田のあぜにあり母建てしとぞ
 ・「南溟」とか「水漬きて」なんかの言葉は、古めかしくて現代短歌ではあまり使わない。南方に出いいのではないか。
 ・「南溟に水漬きて還らぬ兵の墓」というところがなんとなく俳句の口調になっており、もう少し工夫が必要。
 ・この歌のバックを考えて、「南方」、「一人息子なのか」、「女手一つで育てたのか」などなどについて言うなら、別の歌にすべき

 → → → 残されし母が建てにし兵の墓田のあぜ道のほとりに古りぬ


(2) 亡き妻の血を引くゆえかわが娘笑える時に鼻にしわよる
 ・「笑える」が問題  「笑える」といった場合、二つの意味に取れる。
  〈ⅰ〉 笑っている時
  〈ⅱ〉 笑う事が出来る時
 したがって今の場合は、「笑う時」とした方がよい。

 → → → 亡き妻の血を引く娘笑う時あわれ母に似て鼻にしわよる


(3) 卒寿過ぐ母と今年も庭の枇杷採りしがこれからいくたびかとる
 
 ・「卒寿過ぐ」は「卒寿過ぎし」が正しい。
 ・「これからいくたびかとる」は言いたいことは分かるが、これを言うと煩雑、複雑になってしまう。これは、言わないで鑑賞者の想像に任せる。

 → → → 卒寿過ぎても相変わらず元気なる母と今年も共に庭の琵琶とる



2013.7.5
  Yukikaze


2013/07/03

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.7.3)

7月5日の短歌教室用として下記の3首を提出した。


(1) 南溟に水漬きて還らぬ兵の墓田のあぜにあり母建てしとぞ

    実家の近くに実際にそのようなお墓があった。お母さんの嘆きはいかばかりであったろうか。
           

彼岸花とお墓


(2) 亡き妻の血を引くゆえかわが娘笑える時に鼻にしわよる
  
  私の娘は亡き妻の実の娘でもあるから、性格や体の特徴に似たところがあって当然であるが、実際にそれを目のあたりにすると何とも言えない感慨がある。
 


(3) 卒寿過ぐ母と今年も庭の枇杷採りしがこれからいくたびかとる

  6月になると、92歳の母親と毎年庭の枇杷の実を採っている。実家のあたりでは、家ごとに枇杷の木があってこの時期どの家にも枇杷の実が鈴なりになっている。しかし、よく見るとどこの枇杷の実も親指ほどの大きさしかなく種が大きな枇杷のことであるから、たぶん食べられたものではないのではないか。それに比べて、実家の枇杷の実は十分に大きく、人にあげても喜んで食べてもらえる、と母はいつも自慢している。この枇杷採りもいつまで続けられるのだろうか。

琵琶の実

2013.7.3
   Yukikaze