2009/10/02

読書のしおり -その12 『 ドイツ料理万歳 』

 読書のしおり -その12 『 ドイツ料理万歳 』  川口マローン恵美 平凡社新書 777円

西洋料理と言えば、大体がフランス料理とかイタリア料理だ。 たまには、英国料理やスペイン料理や稀にはギリシャ料理などもあるが、ドイツ料理はほとんど聞いたことがない。 ドイツと言えばすぐ思い浮かぶのがビヤホールであり、これはたぶんビールが主体であって、つまみにソーセージが出てくることはあっても、料理は副次的なものであってそれもジャガイモが主ではないか、と思っていた。 そういうわけで、書店の店頭でこの本を見かけたとき、「そういえば、通常ドイツ人はいったいどんな食べ物を好みかつ食べているのだろうか」という素朴な疑問が浮かんできてあまり躊躇しないで買ってしまった。 著者は、生年月日が書いてないので正確な年齢は分からないが、たぶん50歳前後の方で、ドイツ人と結婚して、もう25年間ドイツ西南部のシュトゥットガルトに住んでいる日本人女性である。
本書で紹介されているのは、豚肉料理、ワイン、ビール、チーズ、川魚料理、ジャガイモ料理、ソーセージ、そのほかアスパラ、コーヒー、ケーキなどであるが、著者の意気込みにもかかわらず、まことに申し訳ないが正直言って「大枚をはたいてわざわざ食べに行きたい」と思うようなものはなかったように思う。 まず第一に、いずれもなんとなく味が大ざっぱな上ボリュームが多い、という印象が残った。 第二に、味付けがこれまた大雑把というか極端に塩辛いか反対にほとんど味がない、というものが多そうだ。 第三番目は、食事のマナーというか、ワイワイガヤガヤ大騒ぎをしながら、あるいはぺちゃくちゃぺちゃくちゃ饒舌におしゃべりをしながらの食事が大好きなのだそうだが、自分にとってはあまり性に合いそうにない。
そうは言っても、よくよく読んでみると、断片的には自分の性に合いそうなものも中にはありそうだ。 たとえば、川魚の料理だ。 ドイツは北方の3州波歯科海には面しておらず、多くのドイツ人にとっては、海はあまり生活とは縁のないものらしい。 そういうわけで、ドイツで魚と言うと伝統的には川魚となる。 ニジマスはドイツで一番食べられている魚であって、取れたてを、グリルか、水煮か、あるいはソテーしたもの、特にソテーしたものにアーモンド・バターソースをかけ、塩ゆでのジャガイモの突け合わせで食べる、というのは、著者も言っているがかなりいけるのではないかと思う。 そのほか川魚の燻製したものにサワークリームに塩、コショウ、香草、レモン汁などで作ったソースをかけて食べるのもおいしそうだ。 その墓には、ソーセージ。 ドイツには、1500もの種類のソーセージがあるそうである。 茹でソーセージや生肉ソーセージなどがあるそうだが、茹でソーセージの一種の白ソーセージを地元のビールとブレッツェルという南ドイツのお菓子と甘みのあるマスタードで食べるのは如何にもおいしそうだ。 それから、ワイン酒場べーゼンというのも面白そうだ。 ベーゼンというのは、農閑期にワイン農家が商売気を抜きにして一時的に開いているワイン酒場のことだそうだ。 普通の農家が酒場になっているので、見つけにくいが、目印はその農家の入り口に掲げられている「箒(ほうき)」だそうだ。 農家の家庭料理をつまみにその農家が作ったワインを世間話をしながら飲むという雰囲気も悪くはないような気がする。 ただ、ベーゼンには当たりはずれも多いようだ。 また、ドイツ人にとっては、ケーキとお茶とおしゃべりと散歩は、切っても切れないワンセットであり、それをものすごく大切にし、かつ楽しみにしている、というのも何となく分かるような気がする。
ドイツと言えば、ビール。 毎年、10月に2週間かけて開催されるミュンヘンのオクトーバーフェストというビール祭りは、2009年が176回目になるかなり有名なお祭りらしい。 会場には各ビール会社の巨大なテント村がいっぱい出現し、たとえば、ホーフブロイ社のテントに至っては、内部に6900人、戸外にも3000人収容できるというから、その巨大化が分かる。 このようなテントがたくさん設営され、この2週間の間に600万人の人が訪れ、500万リットルのビールが消費され、50万羽の鶏が食されると聞けば、いかに巨大なビール祭りか想像できようというものだ。 これも一度は行ってみたい気がする。
以上、ドイツに関心がある、あるいは行く予定がある方は一度目を通しておいても損はないのではないかと思います。

’09.10.2
   Yukikaze

2009/10/01

読書のしおり -その11 『 縄文の思考 』(5/5)

読書のしおり -その11 『 縄文の思考 』(5/5)  小林達雄 ちくま新書 735円

山は高ければよいというのではない。 高さを誇るというよりも、むしろ容姿が発散するオーラ、風格が縄文人の目を魅きつけ、縄文人の気を魅く。 そのような山は、近くであろうと遠くであろうとそれ相応の見栄えがするが、頂上と言えば岩肌丸出しで草木もまばらでうそ寒い。 獲物もほとんど寄り付かないし、とても住みついて生活するところではない。 そんな頂上にも縄文人は確かに登っているのだ。 どんな用があったというのか、見当もつかない。 登山の本場ヨーロッパでさえも、山登りを目的とするようになったのはせいぜい13世紀以降のことであるそうだ。 そこに山があるから登る、という思いで頂上を目指すのは原始性を断ち切った新人間になってからである。 北海道の大雪山系の白雲岳、岩手県八甲田山、長野県八ヶ岳編笠山、滋賀、岐阜県境の伊吹山神奈川県大山などなどにおいて山頂から縄文文化の遺物が発見されている。 縄文人は、仰ぎ見ることで、はるかに隔たる空間を飛び越えて情意を通ずるのだ。 その積極性の現われが、ストーンサークルであり巨木列柱や石柱列や土盛遺構の位置取りを山の方位と関係づけて配置したことである。 さらにそうした山頂、山腹と二至二分における日の出、日の入りを重ね合わせる特別な装置を各地、各時期に創りあげたのである。 しかし、ムラと山頂との距離はいかに頭の中で観念的に越えて一体感に浸ることができたとしても、物理的距離は厳然として存在し、信念、信仰の縄文人魂だけでは到底埋めることはできない。 手を伸ばしても届かない山頂を呼び込むことは不可能だ。 この壁を打開するために、時には縄文人は自ら山頂を目指す決意をし、ついに実行に移したのだ。 こうして、山を仰ぎ見るだけでは手応えに不安が残る思いを解消するための具体的な一歩を踏み出したのだ。 そして、直に山頂に足跡を残し、山の霊気と接触することで自らの意思を伝え、交感することができたのであった。 縄文人が仰ぎ、時には登ることもあった山は、目に見える単なる景観の一部ではなく、縄文人によって発見された精霊の宿る特別な山であった。 この想いは縄文時代の終焉とともに忘却の彼方に押しやられたのではなく、縄文人の心から弥生人の心にも継承され、「修験者のような山岳宗教」や「山の神」などの形で、現代までも日本人の心の奥底に脈々と受け継がれているのではあるまいか。 山に対する信仰は、世界中で様々な形態があるが、日本のような精神的に内化した山のイメージといったものはないそうである。 石川啄木に『 目になれし山にはあれど秋くれば、神やすまふとかしこみて見る』、『 汽車の窓はるかに北に故郷の山見えくれば襟をただすも 』という歌もある。 かくのごとく、山に対する日本人の心には、日本の伝統的文化の象徴性が見えるような気がする。 以上に紹介したことや、添付写真の「 合掌土偶 」などにみられるように、縄文人は、高い精神性を持っていたことを改めて認識した次第である。
「結びにかえて」において、著者は、縄文文化が、現在の北海道から対馬、沖縄までの現在の日本列島の範囲に見事におさまっている理由について、面白い見解を述べている。 すなわち。現在の日本列島以外に縄文文化が波及していないのは、言葉の問題があり、彼我とは言葉が違い、文化が異なっていたからではないかと。 そのほか、本書には、縄文人の「人間宣言」、住居、居住空間、家族、炉、埋甕、交易、「気っぷ」の贈与、右と左、などの章立て、項目があり、縄文人、縄文文化について、その異常ともいえる「こだわり」をはじめとする精神面からその特徴を明らかにしており、それについての格好の入門書である。 本書を読んで、一度、現代の生活においてはほとんど意識されることがないけれども、われわれ日本人の深層心理に深く刷り込まれているであろう「縄文人の心」を呼び覚ましてみることは、大いに意味のあることだと思う。(完)


’09.10.1
   Yukikaze

読書のしおり -その10 『 縄文の思考 』(4/5)


読書のしおり -その10 『 縄文の思考 』(4/5)  小林達雄 ちくま新書 735円

ムラでの生活が進むにつれて、ムラは一つの型に整備され、公共的広場をムラの中央に置いた縄文モデル村が完成する。 しかし、日常生活にとっての必要十分な施設の種類と数はほぼ出そろい、型通りに配置されても、その勢いは決して終息しようとはしなかった。 むしろ縄文人意識、アイデンティティーの確認は、鎮静に向かうどころか、余勢をかって更なる主張を目指して、予想を超えた動きを始めた。 日常生活と密接にかかわる諸施設とは、全く性質を異にするモノの創造である。 そのモノは、その実現のためには日常的諸施設に比べて数十倍はおろか、数千倍もの動員と年月を必要とするのである、というよりも量的な勘定の次元を超えている。 つまり、それほどまでに人手と時間をかけるほどの、やむにやまれない必要な機能が意識されていたからに他ならない。 要するに、この記念物=モニュメントと呼ばれるものは、腹の足しにはならないが、その代りに頭、心の足しになるものである。 著者は、巨大な石を何らかの規則性をもって並べている例などをいくつか挙げている。一例をあげれば、大湯環状列石においては、その配石遺構に用いられている石材は7,300余個に達する。 その多くは独力では持ち上げることができない大きさ、重さであり、さらに3人がかりでも動かせないほどのものさえ少なくない。 それらをすべて遠方7キロメートルも離れた安久谷川上流から運び込んでいるのであるから、並大抵の決意ではない。 しかも扱いに適当な大きさのものでよしとするのではなく、はたまた遠距離も厭わず、これと決めた種類の石とその供給地にこだわる彼らなりの頑固な理屈で動いていたのだ。 一方、巨大な柱を立てたりする例が東日本のあちこちで見つかっているが、とりわけ、縄文中期の三内丸山遺跡の6本柱は、現代人の感覚からすればまるで常軌を逸する、としか言いようがないものである。 とにかく、直径2メートルの穴を深さ2メートル以上も掘りこんでおり、その穴の底には直径1メートルの巨大木柱の根っこが腐りきらずに残っていた。 巨木の調達、伐採、枝はらい、運搬そして穴掘り、立てる段になっても、さらに人手と時間が必要とされる。 巨木柱が天を衝いて、すっくと立ち上がること、六本であること。 あるいは、縄文人の世界観の中に見られる整数三が向きあったり、整数三の倍数としての六の効果。 そうした要素が込められた、記念物の面目を確かに見て取ることができる。 しかも、三本向き合って並ぶ方位は、なんと夏至の日の出および冬至の日の入りとあやまたず一致しているのである。 その時刻ならば、柱列の間に放射状のダイヤモンドビームが現出するのだ。 とにかく、縄文人が、夏至冬至春分秋分(二至二分)を彼らの知に体系に組み込んでいた事実を見落としては、縄文人、縄文文化の本質を見誤ってしまいかねないであろう。 二至二分は、各地の縄文人が、ひとしく認識していた知的財産なのである。
栃木県寺野東遺跡の環状土盛は、直径165メートル、全体の高低差は約5メートルである。この遺跡を精密に発掘調査してみた結果、この遺跡の土盛作業は、開始されてから1000年にもわたる長期間継続していたことがわかった。 三内丸山遺跡の土盛においても、ざっと1500年間もの驚くほど長期の継続工事であることが判明している。 このように土盛工事が10年単位ではなく、100年単位を持って数えるほどの長期にわたる事実に改めて注意しなくてはならない。 いく世代もかけて継続する理由が厳然としてあったという事実は無視できない重大事である。 これらを突き動かした具体的な内容は、容易には知ることはできないが、その間意味が維持され続けていたとなれば、むしろ長期間の造営工事そのものに重大な意味を認めなければならない。 著者はここで言う。 記念物としての環状土盛は、完成はもとより、未完成ということすら埒外において、ただひたすら造営を継続する行為が重要だったのではないかと。 記念物の本領はまさに未完成にこそあるのだ。 完成をただ目標とするまでの未だ到達していない未完成というのではなく、年々歳々工事が継続する限り、刻々と変化する形態そのものが厳然たる完成であり、その完成は、次の完成までの未完成である。 その静止状態は、もはや不動の存在としてあることにおいて、安定するのであり、一連の工事の究極の姿としてひとまず完成することとなるのである。(つづく)

’09.10.1
   Yukikaze

読書のしおり -その9 『 縄文の思考 』(3/5)

独りよがりの読書感想 -その9 『 縄文の思考 』(3/5)  小林達雄 ちくま新書 735円

さまざまな特産品の中でもヒスイはとりわけ特別な存在である。第一に、その原産地は、他に類似品はあるものの糸魚川市の山中一か所に限られているにもかかわらず、縄文列島全域に広くいきわたっている。 第二に、これまでいろいろな石器材料として利用されてきた石器材料とはまるっきり異質の特色、すなわち、他の同類の滑石などに比べて歯が立たないほどの圧倒的硬さを誇る。 入手が困難で、かつ加工が容易ではない。 いかにも玉類の材料としては、きわめて不利な代物であるにもかかわらずヒスイに執着を示してやまないところに縄文人のこだわりがある。 よほどの事情があってのこととしなければならない。 確かにヒスイの色合い、輝きは魅力にあふれている。 しかし、どれほど感性に訴えたとしても、常識的には、これほど物理的に不利な条件を簡単に払拭することは到底できない相談である。 それを超えさせたものとはいったい何であろうか。 とにかくそれほどの悪条件を備えたヒスイを、縄文人は結局モノにして、見事な球(ぎょく)に仕上げたのである。 具体的な理由をはっきりと知ることはできないけれども、縄文人が辿ってきた長い歴史、経験の蓄積から醸成された総合力の意外な表れとしか言いようがない。 ヒスイについては、著者は、以上の観点に加えて、以下の3点を指摘している。 その1は、不利な条件や障害があると、諦めてしまうかといえば、そうではなく、かえって闘争心をかき立てられるのが人間であり、人間縄文人の精神にもヒスイに直面した時にそのような闘争心が働いたと見ることができる。 縄文中期のことである。 その2として、縄文後期から晩期に勾玉(まがたま)が出現したことである。 勾玉は、それまでにない全く新しく独特の形状であり、縄文人が独自に発明した誇るべきカタチであり、他には世界のどこを探してもない。 勾玉は弥生時代以降、古墳時代にも大いに発達し、歴史時代に入ると、三種の神器の一つとなり国体の象徴ともなった。 その3は、ヒスイの穿孔技術に関する縄文人の画期的な新技術の発明についてである。 その発明とは、石の錐(きり)を用いた力ずくの方法では歯が立たないと見るや、乾燥させた中空の篠竹などの中空の錐を用意し、ヒスイより硬い石英の粉末を研磨剤として活用することで、穿孔可能となったのである。 この方法は、柔い中空錐の回転運動と対象物への研磨剤による干渉という二つの作用の組み合わせであり、縄文人独自の発明としての漆技術と並んで次元の高い、画期的な技術として評価されるべきものである。(つづく)

’09.10.1
   Yukikaze

読書のしおり -その8 『 縄文の思考 』(2/5)

 読書のしおり感想 -その8 『 縄文の思考 』(2/5)  小林達雄 ちくま新書 735円  



縄文土器は現在確認されている一番古いものは、青森県で出土した一万6千年前のものがあるそうであるが、縄文文化的な型式の土器が定着するのは草創期後半、すなわち1万2千年~1万3千年前ころからである。 ここで注目すべきは、これらは世界で一番古い土器であって、その次に古い西アジアや南アメリカの約7500年前のものに比べて断トツに古いということだ。 日本人はもともとものつくりは得意であったというわけだ。 さらに、容器としての機能のイメージを見事に実現化した土器の革新性は、人類史上において極めて重要である、とも指摘している。 一方、縄文土器の広がりは、そのまま縄文文化圏と一致し、広く北海道から沖縄まで分布するが、台湾にはない。 縄文土器として有名なものに「火炎土器」なるものがある。 縁には大仰な突起があり、胴が細く、くびれたりしている。 なぜ縄文人は容器としては極めて使い勝手の悪いデザインを作り続けたのか。 かといって、縄文土器は容器の形態はしてはいるが、単なる物を一時的あるいは長期にわたって貯えたりしたものではなく、ほとんどすべてが食物の煮炊き用に供されていたのも事実である。 ここに、縄文人特有の哲学があるのであり、容器に使い勝手の良さを求めるのではなく、使い勝手の良さを犠牲にしてまで容器にどうしても付帯しなければならない何かがあったのだ。 この何かが縄文人による縄文デザインの真骨頂なのだ。 さらに、縄文土器を用いた煮炊きによって、植物食の開発と利用が飛躍的に促進され、その食糧事情は旧石器時代とは比較にならないほど安定し、大陸における農業を基盤とする新石器文化に負けを取ることなく堂々と肩を並べるほどになったのである。
石器の中で最も一般的な石鏃作りにもこだわりが認められ、黒曜石、頁岩、安山岩などについて、地方や、時期によって人気やははやりすたりがある。 特に、黒曜石については、縄文時代の土中深く掘りこんだ採掘抗があちらこちらで複数個所確認されている。 北海道白滝や置戸の黒曜石は、全道に普及していたばかりでなく、樺太やシベリアにまで運ばれているし、佐賀腰岳産の黒曜石も良質で、朝鮮半島にまでわたっている。 また、青森県深浦産の黒曜石は、長野県や新潟県にまで運ばれてきている。 石鏃や石槍には黒曜石以外でも十分に用が足りるのであるが、何よりも縄文人の強いこだわりが窺われる。 特定の石材に実用性を超えた何らかの価値が付与されたためであり、精神文化にかかわる問題が含まれている。(つづく)


’09.10.1
   Yukikaze