2009/10/01

読書のしおり -その10 『 縄文の思考 』(4/5)


読書のしおり -その10 『 縄文の思考 』(4/5)  小林達雄 ちくま新書 735円

ムラでの生活が進むにつれて、ムラは一つの型に整備され、公共的広場をムラの中央に置いた縄文モデル村が完成する。 しかし、日常生活にとっての必要十分な施設の種類と数はほぼ出そろい、型通りに配置されても、その勢いは決して終息しようとはしなかった。 むしろ縄文人意識、アイデンティティーの確認は、鎮静に向かうどころか、余勢をかって更なる主張を目指して、予想を超えた動きを始めた。 日常生活と密接にかかわる諸施設とは、全く性質を異にするモノの創造である。 そのモノは、その実現のためには日常的諸施設に比べて数十倍はおろか、数千倍もの動員と年月を必要とするのである、というよりも量的な勘定の次元を超えている。 つまり、それほどまでに人手と時間をかけるほどの、やむにやまれない必要な機能が意識されていたからに他ならない。 要するに、この記念物=モニュメントと呼ばれるものは、腹の足しにはならないが、その代りに頭、心の足しになるものである。 著者は、巨大な石を何らかの規則性をもって並べている例などをいくつか挙げている。一例をあげれば、大湯環状列石においては、その配石遺構に用いられている石材は7,300余個に達する。 その多くは独力では持ち上げることができない大きさ、重さであり、さらに3人がかりでも動かせないほどのものさえ少なくない。 それらをすべて遠方7キロメートルも離れた安久谷川上流から運び込んでいるのであるから、並大抵の決意ではない。 しかも扱いに適当な大きさのものでよしとするのではなく、はたまた遠距離も厭わず、これと決めた種類の石とその供給地にこだわる彼らなりの頑固な理屈で動いていたのだ。 一方、巨大な柱を立てたりする例が東日本のあちこちで見つかっているが、とりわけ、縄文中期の三内丸山遺跡の6本柱は、現代人の感覚からすればまるで常軌を逸する、としか言いようがないものである。 とにかく、直径2メートルの穴を深さ2メートル以上も掘りこんでおり、その穴の底には直径1メートルの巨大木柱の根っこが腐りきらずに残っていた。 巨木の調達、伐採、枝はらい、運搬そして穴掘り、立てる段になっても、さらに人手と時間が必要とされる。 巨木柱が天を衝いて、すっくと立ち上がること、六本であること。 あるいは、縄文人の世界観の中に見られる整数三が向きあったり、整数三の倍数としての六の効果。 そうした要素が込められた、記念物の面目を確かに見て取ることができる。 しかも、三本向き合って並ぶ方位は、なんと夏至の日の出および冬至の日の入りとあやまたず一致しているのである。 その時刻ならば、柱列の間に放射状のダイヤモンドビームが現出するのだ。 とにかく、縄文人が、夏至冬至春分秋分(二至二分)を彼らの知に体系に組み込んでいた事実を見落としては、縄文人、縄文文化の本質を見誤ってしまいかねないであろう。 二至二分は、各地の縄文人が、ひとしく認識していた知的財産なのである。
栃木県寺野東遺跡の環状土盛は、直径165メートル、全体の高低差は約5メートルである。この遺跡を精密に発掘調査してみた結果、この遺跡の土盛作業は、開始されてから1000年にもわたる長期間継続していたことがわかった。 三内丸山遺跡の土盛においても、ざっと1500年間もの驚くほど長期の継続工事であることが判明している。 このように土盛工事が10年単位ではなく、100年単位を持って数えるほどの長期にわたる事実に改めて注意しなくてはならない。 いく世代もかけて継続する理由が厳然としてあったという事実は無視できない重大事である。 これらを突き動かした具体的な内容は、容易には知ることはできないが、その間意味が維持され続けていたとなれば、むしろ長期間の造営工事そのものに重大な意味を認めなければならない。 著者はここで言う。 記念物としての環状土盛は、完成はもとより、未完成ということすら埒外において、ただひたすら造営を継続する行為が重要だったのではないかと。 記念物の本領はまさに未完成にこそあるのだ。 完成をただ目標とするまでの未だ到達していない未完成というのではなく、年々歳々工事が継続する限り、刻々と変化する形態そのものが厳然たる完成であり、その完成は、次の完成までの未完成である。 その静止状態は、もはや不動の存在としてあることにおいて、安定するのであり、一連の工事の究極の姿としてひとまず完成することとなるのである。(つづく)

’09.10.1
   Yukikaze

0 件のコメント:

コメントを投稿