『 大帆船時代(快速帆船クリッパー物語) 』
杉浦昭典著 中公新書No542
快速帆船クリッパーとは、紀元前後からガレー、カラベル、キャラック、ガリオン、スループ、スクーナー、ブルガンチーン、バーカンチーンなどと種々複雑に進化、発展してきた帆船の、実用帆船としては最後の(そして最良の)形式だとされている。 1820年頃アメリカで登場し、やがてイギリスなどにも広まった。 細長い船体、優美に尖った船首と船尾、三本または四本マストに数多くの帆を装備することによる外観のバランスのよさおよび高速性能にその特徴がある。
本書は、クリッパーの誕生から、アヘン戦争を経て、ティークリッパーレースやウールクリッパーの活躍、有名な「 カテイ・サーク 」についての物語などの章から構成されている。 興味深い実話が随所に挿入されており、帆船のことをまったく知らない人でも、面白く読めるものと思う。
ゴールドラッシュ時の金鉱探しの人々を運んだ、カルフォルニア・クリッパー、中でも、当時速い船でも143日かかっていたニューヨークからサンフランシスコ間を89日間という素晴らしい記録を作ったフライング・クラウド号の話や、ケープ・ホーナーとも呼ばれ、この時代、ホーン岬を何度通過したかと言うことが、帆船乗りの腕前をはかる尺度になっていた、というような話は雑学として知っていても悪くはない。なお、このフライング・クラウド号は時速18.5ノット(34.3Km/h)という素晴らしい記録も出したそうである。
1850年ごろから1872年にかけて、中国の新茶をロンドンまでいかに速く運ぶかが競われたのが、テイー・クリッパー・レースである。 1856年には、ロンドンの茶商人が、新茶を最初にロンドンに運び込んだテイー・クリッパーに、トンあたり1ポンドの賞金を支払うことを発表し、レースに拍車がかかった。 新茶を満載して、5月の末ごろに中国の福州を出発して、南シナ海、スンダ海峡、インド洋、喜望峰、大西洋を90日~100日をかけてひたすら航海し、ロンドンに運ぶのであるが、その乗組員には、単なる船員としてよりもレーサーとしての意識が深く根付いてそうである。 このテイー・クリッパー・レースにおいてもいまだに語り草になっている数多くのドラマが生み出されたが、1869年にスエズ運河が開通し、ヨーロッパから東洋への汽船による航路が短縮されると、新茶輸送も帆船の独占ではすまなくなり、1872年を最後に、テイー・クリッパー・レースといえるほどのものはまったく見られなくなってしまったのである。
イギリス人の心に深く根ざしている誇り高いクリッパーの船名を一つ上げるとすれば、ティー・クリッパーレースやウール・クリッパーレースレースにおいてすばらしい成績を残した1869年に進水したカティ・サーク号をおいては他にはないだろう。 本書には、上記の一代目から、6代目までの各船長の記録が物語風に記されており、読んでいて非常に面白い。
ウール・クリッパーとは、その年に刈り取った羊毛を年末にオーストラリアのニューカスルやメルボルンあるいはシドニーで積み込んで、南太平洋、ホーン岬、大西洋を経て翌年の4月ごろにロンドンで行われる羊毛の売り出し時期までに輸送するクリッパーのことで、たいていは、6月ごろロンドンを出発して、大西洋、インド洋を経て、9月ごろにオーストラリアの港に入港するのが通例であった。 ただし、ロンドンにおける羊毛の売り出しの時期は年によって大幅に違っており。1886年は1月の売り出しだったので、各クリッパーは85年の10月にオーストラリアを後にした。 カティ・サークは1883年から84年にかけてのレースで、82日間というそれまでの常識を破る速力でロンドンに帰り、人々をあっと言わせたそうである。 1884年から85年にかけてのレースでは80日という記録を出し、他のクリッパーをまったく寄せ付けなかった。 1885年から86年に掛けてのレースでは、カティ・サークは宿敵サーモピリーと競争をして、カティ・サーク73日、サーモピリー80日と、カティ・サークは初めて同船に勝つことが出来たそうである。 その後も種々のドラマを残したカティ・サーク号であったが、84日をかけて3月26日にロンドンに入港した94年から95年のレースがカティ・サークのウール・クリッパーとしての最後の航海だった。 その後、カティ・サークはあちこちの国や船主の間を渡り歩いたのち、たくさんの人々の協力によって1954年テムズ川に面するグリニッジで、ほとんど処女航海当時そのままの姿に復元、保存展示され、多くの見学者を集めていたが、野外展示であることから痛みもあり、一時一般公開を中止し、2006年11月より2008年にかけて、大規模な修理と整備をおこなうこととし、あわせて、船の内外装を、もっとも魅力的だったとされる1869年建造当時の状態に復元すべく、その作業が開始された。 ところが、2007年5月21日、カティーサークの船体より火災が発生し、鋳鉄製のフレームを残して多くを焼失してしまい、現在はその雄姿を見ることはできず、まことに残念である。 早い時期の復元を期待するばかりである。
’09.9.23
Yukikaze
杉浦昭典著 中公新書No542
快速帆船クリッパーとは、紀元前後からガレー、カラベル、キャラック、ガリオン、スループ、スクーナー、ブルガンチーン、バーカンチーンなどと種々複雑に進化、発展してきた帆船の、実用帆船としては最後の(そして最良の)形式だとされている。 1820年頃アメリカで登場し、やがてイギリスなどにも広まった。 細長い船体、優美に尖った船首と船尾、三本または四本マストに数多くの帆を装備することによる外観のバランスのよさおよび高速性能にその特徴がある。
本書は、クリッパーの誕生から、アヘン戦争を経て、ティークリッパーレースやウールクリッパーの活躍、有名な「 カテイ・サーク 」についての物語などの章から構成されている。 興味深い実話が随所に挿入されており、帆船のことをまったく知らない人でも、面白く読めるものと思う。
ゴールドラッシュ時の金鉱探しの人々を運んだ、カルフォルニア・クリッパー、中でも、当時速い船でも143日かかっていたニューヨークからサンフランシスコ間を89日間という素晴らしい記録を作ったフライング・クラウド号の話や、ケープ・ホーナーとも呼ばれ、この時代、ホーン岬を何度通過したかと言うことが、帆船乗りの腕前をはかる尺度になっていた、というような話は雑学として知っていても悪くはない。なお、このフライング・クラウド号は時速18.5ノット(34.3Km/h)という素晴らしい記録も出したそうである。
1850年ごろから1872年にかけて、中国の新茶をロンドンまでいかに速く運ぶかが競われたのが、テイー・クリッパー・レースである。 1856年には、ロンドンの茶商人が、新茶を最初にロンドンに運び込んだテイー・クリッパーに、トンあたり1ポンドの賞金を支払うことを発表し、レースに拍車がかかった。 新茶を満載して、5月の末ごろに中国の福州を出発して、南シナ海、スンダ海峡、インド洋、喜望峰、大西洋を90日~100日をかけてひたすら航海し、ロンドンに運ぶのであるが、その乗組員には、単なる船員としてよりもレーサーとしての意識が深く根付いてそうである。 このテイー・クリッパー・レースにおいてもいまだに語り草になっている数多くのドラマが生み出されたが、1869年にスエズ運河が開通し、ヨーロッパから東洋への汽船による航路が短縮されると、新茶輸送も帆船の独占ではすまなくなり、1872年を最後に、テイー・クリッパー・レースといえるほどのものはまったく見られなくなってしまったのである。
イギリス人の心に深く根ざしている誇り高いクリッパーの船名を一つ上げるとすれば、ティー・クリッパーレースやウール・クリッパーレースレースにおいてすばらしい成績を残した1869年に進水したカティ・サーク号をおいては他にはないだろう。 本書には、上記の一代目から、6代目までの各船長の記録が物語風に記されており、読んでいて非常に面白い。
ウール・クリッパーとは、その年に刈り取った羊毛を年末にオーストラリアのニューカスルやメルボルンあるいはシドニーで積み込んで、南太平洋、ホーン岬、大西洋を経て翌年の4月ごろにロンドンで行われる羊毛の売り出し時期までに輸送するクリッパーのことで、たいていは、6月ごろロンドンを出発して、大西洋、インド洋を経て、9月ごろにオーストラリアの港に入港するのが通例であった。 ただし、ロンドンにおける羊毛の売り出しの時期は年によって大幅に違っており。1886年は1月の売り出しだったので、各クリッパーは85年の10月にオーストラリアを後にした。 カティ・サークは1883年から84年にかけてのレースで、82日間というそれまでの常識を破る速力でロンドンに帰り、人々をあっと言わせたそうである。 1884年から85年にかけてのレースでは80日という記録を出し、他のクリッパーをまったく寄せ付けなかった。 1885年から86年に掛けてのレースでは、カティ・サークは宿敵サーモピリーと競争をして、カティ・サーク73日、サーモピリー80日と、カティ・サークは初めて同船に勝つことが出来たそうである。 その後も種々のドラマを残したカティ・サーク号であったが、84日をかけて3月26日にロンドンに入港した94年から95年のレースがカティ・サークのウール・クリッパーとしての最後の航海だった。 その後、カティ・サークはあちこちの国や船主の間を渡り歩いたのち、たくさんの人々の協力によって1954年テムズ川に面するグリニッジで、ほとんど処女航海当時そのままの姿に復元、保存展示され、多くの見学者を集めていたが、野外展示であることから痛みもあり、一時一般公開を中止し、2006年11月より2008年にかけて、大規模な修理と整備をおこなうこととし、あわせて、船の内外装を、もっとも魅力的だったとされる1869年建造当時の状態に復元すべく、その作業が開始された。 ところが、2007年5月21日、カティーサークの船体より火災が発生し、鋳鉄製のフレームを残して多くを焼失してしまい、現在はその雄姿を見ることはできず、まことに残念である。 早い時期の復元を期待するばかりである。
’09.9.23
Yukikaze
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