2009/09/24

読書のしおり - その6 『 おまけの人生 』(2/2)








『 おまけの人生 』(その2/2)  本川 達雄  阪急コミュニケーション  1575円


物理の時間は無限のベルトコンベアであり、今は一瞬でしかないのであるが、それに対し、生物の時問は今しかなく、その今とは、ある長さをもったベルトコンベアであり、それを各生物が回して今という時を作り出している。 このような時問が生物にとって意味のある時問であり、このような時間こそが各生物の存在そのものである。 生物の時間は、ある長さのベルトが回っている現在しかない。 そのベルトが回りきると、次のベルトを回し始め、それが次の現在となる。 生物はこのような現在にしかかかずり合わないのである。 現在とは観念的な一瞬ではなく、今の行為が持続しているある長さをもった実在のものとして現在は捉えられるである。 このように現在もある幅をもつたものであるので、今という時間にも前後がある。 ただし、無限に先や後があるのではなく、前後は断ち切れており、前の時間やその後の時間とは断絶しているのが今という時間である。 生物はエネルギーを使って時間をつくり出しており、エネルギーを使わず時間を生み出さなくなれば、それが死ということになる。 そう考えると、生きているとは生きている時聞そのものであり、生物は時間そのものだとも見ることができる。 物理的見方で過去を思い出すとすれば、過去は一本の長いベルトであり、たぐればどんどん昔に遡ることになるが、生物学的に考えれば、過去とは短い独立のベルトコンベアが、ずらっと並んでおり、ぶつぶつ途切れて、かつ隙間なく並んでいる。 そして、現在という時間も一つではなく、違う生きものは違うベルトを回しているのであるから、それぞれの現在があるわけで、過去とは一本のベルトをずっとたぐっていける一次元の線のような帯のようなものではなく、現在のたくさんあるベルトコンベアをy軸に並べ、それぞれの過去のべルトコンベアをx軸に並べると、xy平面を埋め尽くしているのが全世界ということになる。 したがって、時間は、線ではなく面として捉えられる、と先生は言うのである。 もちろん、生きていないものにも時間が流れている。 太陽や地球の内部エネルギーによって、多くのものは変化するが、これらには、それぞれ、生きものとはまったく別の時間が流れており、すべて存在するものにはそれぞれの時間が流れているということになる。
要するに、先生が言いたいのは、人間でいえば、子供は子供の時間、若者は若者の時間、老人は老人の時間がそれぞれあるのだし、ネコにはネコの時間、ナマコにはナマコの時間、モンシロチョウにはモンシロチョウの時間がy軸上にずらっと並んでおり、x軸上には現在のそれぞれのベルトコンベアが違った速度で回っているということらしい。 そして、生、老、死もその時々のベルトコンベア上の“現在“という観点で考えるべきであって、ニュートン力学における”神“が作った唯一の時間というベルトコンベアに乗せられて無為に運ばれていく存在と考えるべきではない、と。
そのほかにも「正法眼蔵」を著した道元禅師の言葉を引用しての解説など、紹介したいところもたくさんあるが長くなるので割愛する。
以上のような考え方は、まったくユニークなものであって、ほかにこのような考え方を、読んだり聞いたりしたことが無い。 若者の時間、老いの時間というのも面白いが、過去、現在、未来、はたまた、生前の時間、死後の時間との関係についても、もう少しつっこんで考察されていれば、さらによかったと思う。 いずれにしても、この本からは、「 時間 」の感覚、観念について、コペルニクス的転回に近い教示を受けたのも事実である。 ペットとして犬や猫を飼っている方も多いのではないかと思うが、先生によれば、犬やねこの時間は、大雑把に言って、人間の感覚の2~4倍の速さで流れているのであるから、そのつもりで接する必要がありそうです。 例えば、ねこと30分も遊んでやれば、ねこにとっては、人間の時間間隔にして、1時間~2時間遊んでもらったことになり、いい加減飽き飽きしているのではないかと。 

’09.9.24
   Yukikaze 

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