2009/09/24

読書のしおり - その5 『 おまけの人生 』(1/2)









『 おまけの人生 』(その1/2)  本川 達雄  阪急コミュニケーション 1575円

本書の著者、本川氏は、一時有名になった「 ゾウの時間 ネズミの時間 」(中公新書)の著者でもある。 その「 ゾウの時間 ネズミの時間 」は、ずいぶん前に読んで、もうその詳しい内容は忘れてしまったが、なんとなく印象に残っていた本である。 本書にもその話が出てくるので、もういっぺんおさらいをするつもりで読んでみた。
まず、著者はテレビを見ない、という話とナマコへの愛着の話が出てくるが、ここではそれらは省略して先に進む。 以下、先生の主張、考え方を、本書に内容に沿って、見てみたいと思います。 ほとんどが、本書からの抜書きとなってしまいましたが、あしからずご了承ください。

確か、「 ゾウの時間 ネズミの時間 」の中にも書いてあったと思うが、先生は、「 動物の時間 」について統計的な考察の結果、次のような結論を導いている。 すなわち、哺乳類や鳥類という恒温動物の場合、ゾウでもネズミでも、心臓の拍動の間隔、腸の蠕動の時間、血液が全身を一巡する時間、懐胎時間、寿命などは大雑把に言うと、体重の1/4乗に比例する。 また、一生の間に打つ心臓の拍動回数は約15億回ということである。 心臓が15億回打つとゾウでもネズミでも人間でも死ぬということである。生きものの世界を考えると、ゾウにはゾウの時間があり、ネズミにはネズミの時間が流れているのだ、と先生は主張する。 なぜそうなるのかは、今のところはわからないのであるが、とにかく、時間は動物によって違い、体重の四分の一乗に比例してゆっくりになる。 一方、エネルギー、すなわち「 食べる量 」に着目し単位体重あたりのエネルギー消費量と体重の関係を調べてみると、エネルギー消費量は、体重の四分の一乗に反比例して減っていくことが分かったそうである。 面白いことに、ここでまた「 体重の四分の一乗 」という関係が出て来るのである。 時間は体重の四分の一乗に正比例して長くなっていくのに対し、エネルギー消費量は体重の四分の一乗に反比例して減っていく。 つまり時問とエネルギー消費量は、ちょうど反比例の関係になる。 反比例であるので時間とエネルギー消費量をかけ算してやると、体重の項が消えてしまい、体重によらない一定値になる。 すなわち、たとえば心臓が一回ドキンと打つ時間を例にとると、一回打つ間に、ゾウもネズミも私たちも、同じ量のエネルギー( 2ジュール )を使うということであり、2ジュールを、ネズミは0,1秒の「ドッ」の間に使ってしまうし、ゾウは「ドーッキーン」と約2秒かかつて使う。 長短はあるが、どちらも心臓時計一拍子の間に使うエネルギー量は同じだということである。 心臓は、一生の間で約15億回打つのであるから、一生の間に使うエネルギーは、単位体重当たり、15億回×2ジュール=30億ジュールで、みな同じになる、ということである。 そして、一生に食べる量もみな同じになる。 エネルギー消費量というのは、物理学的に言えば仕事量であるから、結局一生の問にする仕事量はみな同じ。 それをゾウは七十年かけてゆっくりやる、ネズミは二年くらいで全部パッとやってしまう、ということになる。 話は非常に簡単であって、哺乳類という同じ機械を考えた場合、これを一回転させるのに2ジュールのエネルギーを使い、十五億回回転すると壊れるようにできている。 そういう機械だから、速く動かせば早く壊れてしまうし、ゆっくり動かせば長持ちする。 だけど一生の間に同じだけのエネルギーを使って、同じだけの仕事をする。 とすると、ゾウのように長生きしてもネズミみたいに短命でも、死ぬときには、ほとんど同じくらい生きたという感じを持って死ぬのかも知れないのだ。 このように考えると、時問は長ければいいという話ではなく、ネズミは二年ぐらいでワーツとみんなやつてしまうわけだから、時間の密度がすごく濃い。 逆に、ゾウなんて密度が低いスカンスカンの時間。 時間に質の違いがあることになる。 時計の時間( 絶対時間 )には質の違いはないのだが、動物の時間は、それぞれの動物によって質が違い、それぞれの時間の中でそれにふさわしい生き方をしているのが動物だ、ということになる。 動物の時問に質の違いがあるとすれば、その動物のことを理解するには、その動物の時間まで配慮していろいろな生き物と付き合いをして、初めていろいろな動物の世界が見,えてくる。 そうなると、世界が重層的に見えてきて、とても面白い。
一生の間に心臓が十五億回打つといったけれども、じつは人問の場合は、十五億回打っても四十歳ほどであって、今の寿命の半分程度なのだそうである。 でもこれは見当はずれの数字ではなく、長い人類の歴史を通して、寿命はずっとそのくらいだった。 例えば、戦前だって平均寿命は五十歳だった。 老眼、白髪、閉経 など老いの兆侯は、な四十歳台から現れ、老いた動物は、自然界にはいないのが原則、すなわち、ちょっとでも衰えると、たちまち野獣や病原菌に食われてしまう。 人間について言えば、五十歳以降の老いの時問というものは、本来存在しないものであり、医療技術等により、人為的につくられたものである。 だから言ってみればこれは「 おまけの人生 」であって、そういう意味でも、現在、ほとんどの人が享受できるようになった長い老いの時間は、若い時の時間とはまつたく違う異質なもの、と考えるべきである。エネルギーを使うと生物の時間が流れる( 生み出される )という考えは、生きている時間を特別のものとして捉え、それだけが意味のある時間だとみなす。 言い換えれば、生きている時間( 今生きている時間、つまり「 現在 」 )しか生物にはないとも考えられる。 これは、生物のことを考えれば、当然と言えば当然の話なのであって、過去は記憶であり、未来は期待であるということを考えれば、どちらも人間の脳味噌が紡ぎだしたものに過ぎない。 他の生物にそのような観念はないと考えてよく、結局、生物の時間には「 現在 」しか存在しないことになる。

’09.9.24
   Yukikaze

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