2013/05/20

初めての歌会(2013.5.20)

 5月18日(土)、コスモス短歌会の浦和支部の短歌会に初めて出席した。場所は、北浦和駅の西口から歩いて5分ほどの北浦和公園内にある恭慶館という施設である。この恭慶館は、茶道や華道、俳句をはじめとする文芸活動や伝統文化の拠点としてさいたま市の文化振興事業団が管理・運営している施設である。このほかにも北浦和公園内には、埼玉県立近代美術館もある。

北浦和駅西口
北浦和公園








埼玉県立近代美術館
恭慶館












 歌会は、この恭慶館で13時から始まった。今日の出席者は初参加の私を入れて17名、男性6名、女性10名であった。まず、事前に提出しておいた各自一首ずつの短歌(すなわち17首、ただし、どの歌が誰の歌かは伏せてある)の中から、自分の評価する歌を三首選んで記名投票。そのあと、コスモス誌に掲載された各自の歌を一首ずつ紹介し、出席者全員で批評しあう。次に投票結果が発表され(まだ、どの歌が誰の歌かは伏せてあり、一番最後まで分からない)、その歌に投票した人が、なぜその歌に投票したかを述べる。また、意見のある人は自由に自分の考えを述べる。というようにして、歌会は進み、終了したのは16時45分ごろであった。私が提出しておいた歌は、

 「 菩提寺の納戸に過去帳繰りており遠きみ親の世をおもいつつ 」

であったが、得票数は、4票。この内容に共感したという方もいたが、「お寺の納戸に収納されている膨大な過去帳にもう少し焦点をあてて詠んだ方が良かったのではないか」などの意見も出されていた。 なお、最高得票の歌は、Tさんの

 「 図書カード定規はがきを栞とし読みさしの本四、五冊のあり 」

であり、得票数は、8票であった。

 なにはともあれ、初めての経験であり、最初のうちは多少緊張したが無事に終わりいい経験になった。特に、自分がいいと思ったものと、ほかの出席者がいいと思ったものとが一致しないのは、ある程度はやむを得ないとしても、私一人しか投票しなかった歌があったのには、少々考えさせられるところがあった。また、この会そのものは、コスモス短歌会の選者にもなられている超ベテランの方が2名おられるなどかなりの上級者の方たちもたくさんおられたが、気さくに意見を述べ合うこともでき非常にいい雰囲気であり、出来るだけ参加していきたいと思った次第である。

 この歌会は毎月原則第三土曜日に開催されており、次回は6月15日の予定だそうだが、私は、祖母の三十三回忌が実家のある徳島で6月16日に予定されており(というより、この6月16日は以前に私が決めたものであるが・・・)、残念だが欠席せざるを得ない。

 なお、この短歌会とは関係のないことであるが、この6月15日には「さくら会」の「ピクニック」が催されるとの連絡もきた。上記の理由で、こちらの方も欠席せざるを得ない。私の家内は、昨年2月に東京小金井市にある桜町病院のホスピスで亡くなったが、「さくら会」とは、このホスピスで亡くなった方の遺族のうち有志の方々で作っている親睦会であって、年に3回~4回のイベントを実施しているそうであり、この6月15日のピクニックは、私にとっては最初のイベントになるはずのものであった。




2013.5.20
   Yukikaze


2013/05/19

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.5.19)

 先週の金曜日、5月17日に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第27回目の短歌教室があった。この5月17日は、昨年の5月18日に私がこの短歌教室に初参加してちょうど1年目、27回目である。 今後も頑張って息長く続けていきたい。

 今回は、先月の20日から25日にかけて、九州・大牟田を20数年ぶりに音連れた時に感慨を詠んでみたものであったが、跡かたもなく治されてしまった。

(1) 尋ね行きし筑後の国の家跡に思い出に残る何物もなし
 ・ この歌は、いろいろと説明を聞かないと内容が理解できず、抽象的すぎる
 ・ 「筑後の国」などという古い言葉は使わないようにすること
 
 ・ いつ頃まで住んでいて、今はどこに住んでいるのか

→ → → 尋ね行きしがかって住みにし家はなく野菊の花のあふれ咲くのみ


(2) 不知火小廃校となりて同窓の四人の語りあかとき尽きず
 ・ 廃校となったのはわかるが、建屋は残っているのか
 
 ・ なぜ四人なのか、同窓会だったら、もう少し多いのではないか
 ・ また男同士なのか女性もはいっているのか
 ・ 「あかとき尽きず」という言い方はしない。言うなら「あかときまで尽きず」と言うべき
 ・ 一晩中語り合った、語り合って夜が明けてしまった、という言い方に工夫すべし

→ → → 廃校となりし不知火小学校のかっての同窓生四人と酒飲む

→ → → 母校なりし不知火小の同窓の男四人と久々に飲む

→ → → 小学校の同窓生四人と久々についに夜明けまで汲みかわしたり


(3) 年を経て会いし友らも老いにけり口づてに聞く訃報の多し
 ・ 「訃報の多し」という言い方はしない。
 ・「老いにけり」とあるがまだ70歳前であれば、言い過ぎ

→ → → 久々に会いたる友ら老(ふ)けていて聞けばすでに亡きひと多し

→ → → 久々に会いたる友ら老けていてすでに亡きひと多しとぞ聞く


今日も随分と自信を持って提出した歌だったが、御覧のように見るも哀れな結果になってしまった。先生の指摘をよくかみしめて、今後に反映させていきたい。

先生の全体評 :
  「 筋書きだけの歌では困る。バックに潤いを持たせた歌を心掛けること 」 と

私の歌ではないが、Mさんの歌 :
 「 ヒヨドリが運びくれしか心当たりなき草花の庭に咲きおり 」

→ → → 野の鳥が運びくれしか種をまこしはずなき万両の花庭に咲きおり


2013.5.19
   Yukikaze

2013/05/17

大牟田おもいで紀行(5/5)(五日目、4月24日 & まとめ)

 24日は、ホテルを朝9時30分ごろに出て、少し博多駅前をブラついてから、博多駅から福岡空港へ地下鉄で行った。博多の駅前は、私が学生時代を過ごした時代からみるとまったく様変わりしている。変化の内容については私は語る資格がないので、割愛します。

はかた駅前通り
博多駅









 

 地下鉄を降りて飛行場へ向かっている時であった。後ろから突然肩をポンポンと叩かれた。どうせ何かの人違いだろうと、振り返ると、「△△(私の本名) さんですよね、○○です」、と言うので相手の顔をよく見ると、なんと私の長男の親友のO君ではないか。びっくりしたが、本人であることは間違いない。出張で、福岡に来てこれから帰るところです、という。2分~3分立ち話をして、近くにいた佐川急便のお兄さんに頼んでデジカメのシャッターを押してもらった。とにかく悪いことはできないものだ。日本国中、いや世界中どこに行っても、どこで誰に会うか分からない、ということみたいだ。

O君と福岡空港で

 帰りの飛行機は、11時50分発のスカイマーク航空。羽田到着は、13時25分の予定だったが、出発がかなり遅れて荷物を受け取ってゲートを出てきたのは、14時30分ごろであった。接続が悪く、モノレールで天王洲アイルまで行き、そこで埼京線直通の臨海線に乗り換えて武蔵浦和に着いたのは16時30分を回っていた。駅前で買い物などをして、家に帰着したのは17時を過ぎていた。

 まとめ :
 今回は、ふと思い立って4月20日からの4泊5日の旅行であった。 当初計画した時は、さらに2人の旧友と会いたいと思っていたが、当人の都合で実現できなかった。しかし、11人の旧友およびそのうちの3人はその奥さんにまで会え、心行くまで歓談をし旧交を温めることができて本当によかったと思っている。また、福岡の発展ぶりと、その逆に大牟田の凋落ぶりを目の当たりにして、気が重くなったのも事実である。ケアハウスの駐車場になっていた、生まれてから19年間を過ごした家の跡地や一面の段々畑だったところにびっしりと家が立ち並んでいる光景にもびっくりしてしまった次第である。桑田変じて大海となる、という言葉があるが、そこまではいかないにしても、変われば変わるものである。しかし、一度は訪れたいと前々から思っていたこともあり、現実を見て、それはそれでやっと気が済んだ、というのが本音である。当然私も旧友たちも年々歳をとってきているわけであるし、これから何回会えるかわからないが、お互いに健康に留意し機会を見てまた会おう、と約束をしてきた次第である。
 最後に、大牟田の夏祭りの花「大蛇山」の写真と大牟田駅前にある獅子の像「希望の泉」を掲載してこの「大牟田おもいで紀行」を終わりたいと思います。

勝立大蛇山(大牟田温泉内に展示)
本宮彌劔神社の大蛇山
大牟田駅前の「希望の泉」

2013.5.17
   Yukikaze

2013/05/16

大牟田おもいで紀行(4/5)(四日目、4月23日)

 23日は久留米経由で福岡に戻る予定。 8時過ぎにホテルを発って、昨夜T君から招待されていたので、まずT君の自宅に向かう。彼の家は大牟田の北の方にあって、これから久留米、福岡と向かうには都合がいい。彼は会社を退職後、郷里の大牟田に帰り好きなお茶の先生をやっているらしい。玄関から茶室への通路も木々がこんもりとしていて趣深い。にじり口から入って、お茶をふるまってもらった。そのあと小一時間ほど奥さんも入って、思い出話や世間話などリラックスした時間を過ごした。

T君の茶室へのアクセス
T君の茶室でT君と











 T君の家を10時過ぎに辞して、一路久留米に向かった。13時30分に大津留先生と母校の久留米大学附設高校で会う約束であり、あまり時間もなかったがそれまでの時間を利用して「石橋美術館 http://www.ishibashi-museum.gr.jp/ 」に行くことにした。東京の八重洲口に「ブリヂストン美術館」があるが、ともにブリジストンの創業者石橋正二郎が創設した姉妹館だとのことである。館内には、地元出身の青木繁の「わだつみのいろこの宮」や「海の幸」、坂本繁次郎の「放牧三馬」、地元出身ではないが、黒田清輝の「針仕事」、安井曾太郎の「薔薇」、藤島武二の「天平の面影」などびっくりするような名画がずらりと展示してある。高校時代に何回か来たことはあったが、今改めてその内容・レベルの高さを再認識した次第である。


石橋美術館正面
石橋美術館の庭園









世界の人々の楽しみと幸福のために
石橋美術館寄贈碑











青木繁
わだつみの
いろこの宮

青木繁 海の幸
安井曾太郎
薔薇
藤島武二
天平の面影

 13時ごろにこの石橋美術館を後にし、母校の久留米大学附設高校 http://www.mii.kurume-u.ac.jp/fusetsu/ に向かい、同校の「同窓会室」で大津留先生と面会した。大津留先生は、私が在学した1960年から1963年(昭和35年~昭和38年)時にはおられなかったが、その後国語の先生として赴任されたそうである。先生は、短歌に造詣が深く、附設の先生時代から現在に至るまで短歌の普及・啓蒙および後進の指導に非常な熱意を持ってあたられており、現在もそれは続いている。毎年宮内庁が主催している「歌会始の儀」に先生が指導されている久留米付設から、3名の生徒が預選歌として入選しており、また、先生ご自身も、平成9年の「歌会始の儀」に下記の歌が預選歌となっている。

  『 あかときのひかりのなかに髪を梳(す)く白寿の母の姿しづけし 』  
                     福岡県 大津留 敬   平成九年一月十四日

 一時間ばかり短歌のお話をメインに、現在の状況や苦労話などをお伺いした。なお、大津留先生に関しては、先生を慕う久留米附設の卒業生有志で作っている、「大津留学校」なるものがあって、毎年1回~2回、先生の上京の折を見て、講演会や先生を囲む会などの催しを行っているようである。

 さて、母校である久留米大学附設高校は、いまは、男女共学の中高一貫校となって、立派な校舎が建ち並んでいるが、私が通っていたころ(今から53年前)は、高校のみの男子校であった。場所も久留米大学商学部の敷地の片隅の兵舎跡であり、中央に通路があって、両側に教室がある古い建物であった。今は、その校舎あとは久留米大学のテニスコートになっている。私は大牟田の家からバスに乗って西鉄大牟田駅まで行き、そこで西鉄電車に乗り替えて西鉄久留米まで行き、そこからまたバスに乗って商学部前まで毎日通ったものである。多分、片道1時間半はかかっていたものと思うが、記録を見てみると、私は皆勤賞をもらっている。よく通ったものだと今更感心する。この高校では、その後の生き方や考え方に影響を与えた、重要ないろいろなことを教えてもらった。目をつむれば、当時の先生方の熱心な講義の様子がまざまざと眼に浮かぶ。


久留米大学附設中学校
高等学校校舎
校舎への道









校歌
大津留先生と












 大津留先生と別れた後、久留米で九州自動車道に入り途中から福岡高速に入って、大野城で高速を下りた。そこから、M君の家の前まではナビでスムーズにたどり着くことができた。M君は、大牟田の延命中学校の3年生の時同じクラスだった仲だ。長く郵便局に勤めて、今は悠々自適の生活。彼の結婚式の時の司会をやったのは44年も昔のことだが、昨日のことみたいだ。一旦、家にお邪魔をして、奥さんも含めて一時間ほど3人で思い出話に花を咲かせた。奥さんとはそれこそ44年ぶりだが、なんとなく記憶がよみがえったような気がするし、彼女も同じようなことを言っていた。奥さんも同じく郵便局に勤めていた由。一時間ほどして、M君と二人で私のレンタカーで福岡に出発した。まず、本日の宿泊ホテルである「コートホテル博多駅前」にチェックインをして荷物を預け、そのあと天神のバジェットレンタカーにこの二日半お世話になったレンタカーを返却。この時点で、19時ちょうどであった。それから、二人で近くの居酒屋に入り、2時間半ほど飲みながら歓談。彼のことは大体知っているつもりであったが、彼が海釣りが趣味で、それが昂じて二級小型船舶操縦士免許をとっているとは知らなかった。小型船を借りて、よく沖釣りに行ったそうだ。沖釣り用の小型船を購入しようかとも、考えている由。いろいろな話で盛り上がり本当に楽しいひと時を過ごすことができた。名残惜しいが、9時半ごろに天神で彼と別れて、私はタクシーで宿泊の「コートホテル博多駅前」に戻った。


23日の宿泊の
コートホテル博多駅前
M君と













 これで、友人と会う計画をしていたものは、すべて予定通り無事終了したことになる。ところが、明日の朝、福岡空港でビッグサプライズが待ち受けていた。


2013.5.16
   Yukikaze



大牟田おもいで紀行(3/5)(三日目、4月22日(2/2)、おもいでの母校)

 また、22日は思い出の母校に行ってみた。最初は、63年前に通った天使幼稚園 http://www18.ocn.ne.jp/~omutensi/。私は、毎日青葉町の家からバスに乗って通った。バス停までも結構あったしよく通ったものだと思う。この幼稚園は建物自体はもちろん違うが、今でも昔の場所に同じ名称でちゃんと存在していた。私が通ったころは、トタン作りのかまぼこ型の建屋だった記憶がある。オーストラリアからのカトリックの神父さんが来ていたように思う。


63年前の天使幼稚園の入園写真
62年前の天使幼稚園の卒園写真











現在の天使幼稚園礼拝堂

現在の天使幼稚園














 その次は、不知火小学校だが、これはもうかなり前に、多分今から25年~30年ぐらい前に、隣の笹林小学校と統合されて、名前も大牟田小学校と変わっていると聞いた。その跡地は、「大牟田文化会館」と言う施設になっている。いろいろの催し物を行うホールとプラネタリウムなどが設置されているようだ。


62年前の不知火小学校の入学写真
厳しかった角先生
56年前の不知火小学校の卒業写真
懐かしの中道先生











当時の不知火小学校の正門



大牟田文化会館正門
不知火小学校跡地
大牟田文化会館外観












 その次は、延命中学校 http://www.e-net21.city.omuta.fukuoka.jp/enmei-jh/。ここは当時の建物がそのまま残っている。事務の方とお話をしていたら、校長先生に取り次いでもらえた。驚いたことに、いろいろ話しているうちに、今の井上校長先生は、なんと我々がこの延命中学で歴史を教えてもらった井上先生のご子息であることが分かった。何か懐かしい思い出いっぱいになった。聞くと、この延命中学校も2年後には、隣の右京(うきょう)中学および船津中学と統合され、名前は変わるが右京中学校が存続校になり、延命中学も廃校になるとのことであった。なんでも、今は、一学年52人~53人しかおらず二学級維持するのがやっととのことである。我々のときは、一学級50人目いっぱいいて、9クラスまであったので、単純に計算して一学年450人の児童がいたことになる。それが、今は53人であるから、児童数は9分の1になった勘定になる。一方、大牟田の人口は、私がいたころは23万人超であったが、今は12.5万人だそうである。ざくっと言って、半分になってしまっている。これは要するに、人口は半分、中学生は1/9ということであるので、いかに我々のような老人が多く、若者が少ない街になっているのかの証左であろう。

56年前の延命中学校の入学写真
横道にそれてばっかりの古賀先生
53年前の延命中学校の卒業写真
優しくも厳しかった笠間先生










延命中学校の校舎
53年前と同じ建物
現在の延命中学の校長先生
(井上先生)と














延命中学校校歌


なお、高等学校は、久留米であり翌日の23日に訪問した。

以上、4月22日の母校訪問記でした

2013.5.16
   Yukikaze


大牟田おもいで紀行(2/5)(三日目、4月22日(1/2))

 22日の昼間は、もともと旧友と逢う約束は入れずに、大牟田の思い出の場所を車でドライブする予定であった。まず、今回の旅行の究極の目的である「家跡」に行ってみた。大牟田市青葉町129番地、これが私が住んでいたころの住所である。その場所一帯は、今は「やぶつばきhttp://www.yabutubaki.jp/」(住所:青葉町130番地2)という「ケアハウス」が建っており、昔の面影はまったくない。家の前には広々とした段々畑が広がっていて、小さい時に走りまわって遊んだものであるが、今は所狭しと家が立ちならんでおり、本当にここがあの段々畑か?と思うほどである。家跡の場所は、そのケアハウスの一番奥まった所であったが、現在そこはケアハウスの駐車場になっている。また、その周りは、草が生い茂っている。まさに、
  「 草生うるここが故郷思い出に残るものなき家跡に立つ 」
という状況だ。涙も出ない。跡地の上に高層マンションか何かが立って、それこそ跡かたもなくなるよりはマシと思うほかない。


ケアハウス「やぶつばき」
の正面
「やぶつばき」のホール













家跡の周りに建っている家々(2)
家跡の周りに建ている家々(1)
向こう側に見えるのは、米生中学校











思い出に残るものなき
家跡に立つ



家跡地の駐車場












19歳まで過ごした家と庭(2)
19歳まで過ごした家と庭(1)











 そのあと、思い出をたよりに市内をあちこちドライブしてみた。思いもよらないところに思いもしないものが建っていたり、昔のままの姿が残っていたりと感慨ひとしおである。思いもよらないところに思いもしないものが建っていたのは、住んでいた家の近くであるが、以前はなにもないただの草地だったところに「大牟田温泉 http://mangetsunoyu.web.fc2.com/ 」という立派な温泉施設が建っていたり、町の真ん中に「ゆめタウン大牟田」や「イオンモール大牟田」などの大規模商業施設が出現したりしていたことである。大牟田温泉は、別名「満月の湯」といって、泉質はアルカリ性単純温泉、美肌効果をうたっているみたいである。ちょっと寄ってみたが、平日にもかかわらず、来訪者も多く結構繁盛しているみたいだ。「ゆめタウン大牟田」や「イオンモール大牟田」は、全国あちこちにある大規模施設の大牟田版であるが、これらができたおかげで、以前の町の中心的存在であった、松屋や井筒屋が撤退を余儀なくされたそうで、あまり繁盛しているようにも思えず、仮に将来これらの大規模商業施設がつぶれたりしたら、大牟田はそれこそもう見る影もなくなってしまうのではないかと余計な心配をしたりする。

大牟田温泉「満月の湯」の玄関
大牟田温泉の駐車場
結構繁盛している





 





ゆめタウン大牟田
イオンモール大牟田










 昔のままの姿があったのは、駛馬(はやめ)天満宮 http://www.sekoia.org/hatumoude/hayame_j.htm である。車であちこち走りまわっている時、偶然にこの天満宮の前を通りかかった。小さい時、お正月には燕尾服を着た父に連れられて毎年ここに来たものだ。前の道も周りもすっかり様子が変わってしまっていたので、ここに来るまではまったく予想もしていなかった。早速お参りをしてきた。

駛馬天満宮
駛馬天満宮の幟












 
 三池工業高校の名は高校野球ファンなら知っているはずだ。ご存じ、1965年(昭和40年)の第47回全校高等学校野球選手権大会で、初出場初優勝を飾ったことで有名である。その時の原貢監督は、その後東海大相模高校や東海大学の監督を務めた。長男辰徳は現巨人監督。


三池工業高等学校
三池工業高等学校正門前の坂









 

 そのあと、私が小さかったころ一番の繁華街であった「銀座通り」に行ってみた。この通りに松屋というデパートがあって、たまに父に連れられて、あの格子戸付きのエレベーター(生意気にエレベーターガールもいたしエレベーターとはそんなものだと思っていた)に乗ってたぶん5階ぐらいだったと思うがそのデパートの食堂で昼ご飯を食べるのが楽しみであった。松屋は地元企業として頑張ってやってきて、大牟田市民からも愛着を持ってみられていたようであるが、いかんせん、ゆめタウンやイオンなどの大規模商業施設が進出してきてはなすすべもなく、2004年(平成16年)に健闘空しく倒産したそうだ。その跡地は更地にされ駐車場になっている。また、銀座通りもいわゆる「シャッター通り」で歩いている人がほとんどいない。びっくりするような寂れようだ。


在りし日の松屋正門入口
懐かしの松屋











松屋跡地の駐車場
現在の大牟田銀座通り













 22日の夜は、高等学校の同窓生5人と飲みながら懇談を行った。東京では、首都圏にいる同窓生たちとほとんど毎月飲み会をやっているが、ここではほとんどが高校卒業以来50年ぶりの対面だ。18時30分にYa君がホテルのロビーまで迎えに来てくれた。そのあと一緒に近くの料理屋に行って21時過ぎまで大いに飲みかつ語り合った。集まった私を入れて6人のうち2人がまだ現役みたいだ。Ya君は大学を出て魚屋さんになったと当時大いに話題になったが、今は悠々自適で旅行が趣味のようだ。今回の同窓生の集まりについて、Ya君には大変お世話になった。T君は、退職後お茶の先生をやっているそうであり、あくる日の午前中に自宅に誘われた。Yo君は、電気工事士関係の仕事を老化防止を兼ねてやっているようだ。S君は病院の理事長。O君は悠々自適の生活、とそれぞれだが、みな健康で元気そうなのがうれしい。

Ya君と
集まった面々









 

以上、4月22日の状況でした。

2013.5.16
   Yukikaze