2012/11/23

日々の風景 -短歌教室(添削)(2012.11.22)


先週の金曜日11月16日(金)、浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第15回目の短歌教室があった。

今回もいろいろ言われて大幅に修正させられてしまった。

(1) 鎌のごとき月天心にかかりいて烏が鳴かず飛ぶは淋しき

「鎌のごとき」は通俗的。「利鎌(とがま)のほうがよい。」「月天心に・・・」は大げさすぎるし漢詩的な表現であり短歌には向かない。「烏」は「鴉」と書くほうがよい。また、「烏」とあるが本当にカラスだったのか。ちゃんと見たのか。などいろいろ問題がある、と。

→ → → →  利鎌なる月かかりいるさむき夜鴉らしき鳥横ぎり行けり 



(2) ひさかたの月の光にわたる雁の数さえ見えて秋深みゆく

中世の歌みたいだ。「雁」は「がん」と詠んだほうがよい

→ → → →  秋の月光る夜空を渡りゆく雁(がん)数羽あり時に鳴きつつ



(3) 秋ふかむ日本(やまと)を出でしサシバらに再び会わむ霞(かすみ)立つころ

霞なんか言う表現は、やはり中世の趣だ。現代短歌として詠むこと。

→ → → →  秋深き筑後の空をサシバらの群れか南を指して飛びゆく


今回は「 うーん 」 という感じ。


2012.11.22
  Yukikaze


2012/11/15

短歌・俳句の風景 -その123(2012.11.15)

今回は俳句です

『 鷹の眸(め)の人を許さじ檻の中 』

さいたま市のH.H.さんの作です


檻の中の鷹
鷹の目













「鵜の目鷹の目」という言葉があるが、鷹の目の鋭さには驚かされ、一瞬たじろいでしまう何かがある。その鷹が自分を捕らえ檻に閉じ込めた人間に対する鋭い目つき。将に「人を許さじ」という強い意思がこめられているようにも見える。大きく言えばそれ以上の意味を持たせることもできるかもしれない。

2012.11.15
Yukikaze

 

日々の風景 -短歌教室(提出)(2012.11.15)


11月16日の短歌教室用として下記の3首を提出した。

今回は趣向を変えて「鳥」に関するものを詠んでみた。


(1) 鎌のごとき月天心にかかりいて烏が鳴かず飛ぶは淋しき


 
      

                  
(2) ひさかたの月の光にわたる雁の数さえ見えて秋深みゆく


月と雁の渡り1
月と雁の渡り2


(3) 秋ふかむ日本(やまと)を出でしサシバらに再び会わむ霞(かすみ)立つころ



サシバ
飛翔するサシバ

サシバの渡り
 

2012.11.15
    Yukikaze



2012/11/07

短歌・俳句の風景 -その122(2012.11.7)

今回も短歌です

『 荒寥の海へたどりてゆく小径癌センターの待合室の絵 』

 新潟市のN.T さんの作品です。


きりたっぷ岬


断崖の海 
 
  癌センターの待合室に掲げられている絵としてはあまり適切だとは思えない。 せっかく、癌センターに来ているのにそのような侘しい絵がかかっている待合室で待たされるとは、あまり愉快なものではないだろう。 しかし、短歌の情景としては理解できないことはない。

2012.11.7
 Yukikaze
 
 
 

2012/11/05

日々の風景 -子抱き土偶(2012.11.5)

10月22日に、八王子にある「南多摩高等学校」を訪問し、「子抱き土偶」を見せてもらった。

子抱き土偶については、パソコンで検索するといろいろ出てくるが、その代表的なものを引用しその紹介としたい。

『 今から40年ほど前の昭和43年8月、当時南高3年生で地歴部の菱山剛秀君が、八王子市川口町の宮田遺跡から発掘した「子抱き土偶」。
  今から約4,500年前の縄文時代中期のもので、乳児を抱いた土偶はとても珍しく、日本で初めての発見でした。
首から上が欠損しており、現存する高さは71mmと小さく、母親が幼子を抱いて横座りするその姿は、安産祈願の崇拝物なのでしょうか。
 この「子抱き土偶」は歴史教科書でも紹介され、日本の貴重な文化財として、最初は上野の国立博物館・考古館に展示されていましたが、現在では千葉県佐倉市の国立歴史民族博物館で実物を見ることができます。
 
 また、母校には、母親の頭部を復元したこのレプリカが寄贈されています。
さらに、八王子市の「郷土資料館」にも、レプリカが展示されていますが、頭部はありません。 』

ということで、今年の8月9日に八王子市の「郷土資料館」で頭部がないレプリカを、10月22日に、「南多摩高等学校」にある頭部を推定復元したレプリカを見せてもらってきました。
郷土資料館のもの2
南多摩高等学校
郷土資料館のもの1
南多摩高等学校のもの1
この土偶は高さが7センチ足らずの本当に小さなものですが、4500年前も今と同じように、母親が横座りをして乳児に乳を与えているこの姿に、私は心から感銘を受けました。 親が子をあやめ、またその逆の事件が頻発している昨今ですが、このような昔から受け継がれている我々のDNAを再認識したいものだと、改めて思った次第です。

2012.11.5
  Yukikaze


短歌・俳句の風景 -その121(2012.11.5)

寺山修二の歌です。

『 ころがりしカンカン帽を追うごとく故郷の道駆けて帰らん 』


カンカン帽


この歌はなぜかしら郷愁を感じさせます。 風に飛ばされたカンカン帽、これは追いかけざるを得ない。故郷を離れて人生の荒波にもまれているとき、また何かの折に無性に故郷が懐かしくなる時もある。そのようなときに、何も考えずにとにかく故郷に飛んで帰りたい、という心情をうまく表現しており、好きな歌の一つである。

2012.11.5
  Yukikaze
 
 
 

2012/11/04

日々の風景 -短歌教室(添削)(2012.11.4)

先週の金曜日11月2日(金)、浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第14回目の短歌教室があった。

(1) 共感し日々教えらる新聞の人生案内よき道しるべ

 杜澤先生曰く、「和田さんは、新聞の人生案内欄に、本当に毎日共感し、かつ教えられているのですか」と。 「もうその年になって、『毎日共感し、かつ教えられている』というのでは、ちょっと困る。人生案内の解答にもずいぶんひどいものも多いように思うがどうですか」と。

→ → → 新聞の人生案内に教えられ共感することも時々はある

(2) 失いしもの嘆くより得しものの大事さ思えと回答者言う

 「回答者」が何の回答者かが分からない。

→ → → 失いしもの嘆くより得しものの多さを思えとおのれを叱る

(3) 人生の損得勘定はほぼ零(れい)と諭しし回答うなずきて読む

 これも何の回答か分からない。また、零は常識的には「ゼロ」と読むべき

→ → → 人生の損得勘定はほぼ零(ゼロ)に均しと人生案内にあり

先生の言われるように、一番最初の歌がなければ一首目、二首目の回答
が、何の回答か分からない。仰せごもっともであり今後よく気をつけたい。


2012.11.4
 Yukikaze

日々の風景 -短歌教室(提出)(2012.11.4)

11月2日の短歌教室用として下記の3首を提出した。

 新聞の「人生案内」欄は毎日欠かさず読んでおり、それを題材に詠んでみた。
中には当たり前のことやちょっとズレた回答もあるが、概ねいいことを言っており、
参考になることが多い。

(1) 共感し日々教えらる新聞の人生案内よき道しるべ

(2) 失いしもの嘆くより得しものの大事さ思えと回答者言う

(3) 人生の損得勘定はほぼ零(れい)と諭しし回答うなずきて読む

2012.11.4
  Yukikaze

日々の風景 -短歌教室(添削)(2012.11.4)

先々週の金曜日10月19日(金)、浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第13回目の短歌教室があった。

(1) 古きよき時代のありき「酋長の娘」という歌聞くにつけても

 杜澤先生にとっては、このような歌を聞いても「古き良き時代」どは思わない、とのこと。「和田さんはこの歌がはやった時代を知らないから、このような歌を作るのではないか」、「酋長の娘」なんかよりも、「赤とんぼ」にしたほうがいい、と。

→ → → 昭和初期にはやりし「酋長の娘」という唄聞くにつけ昔懐かし


(2)母の手に果てしおみな子の悲しみをわがことのごとかなしみ嘆く

  「わがことのごとかなしみ嘆く」というのは、あたり前。もう少しダイレクトに言ったほうがいい。

→ → → 母の手に殺されしおさなきおみな子の悲しみ思う、言わんかたなし


(3)昨夜また逝きし息子が夢に顕つ暗き黄泉路を行きなずむらし

 「行きなずむらし」は別の表現にできないか。たとえば、「何か聞きたくなったとか」。

→ → → 逝きし息子が昨夜の夢にまた顕ちぬ暗き黄泉路を行きなずめるか


今回の歌は自信を持って提出したが、先生の感覚には合わない部分が少々あったようだ。

2012.11.4
  Yukikaze