2013/03/31

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.3.31)

先週の金曜日、3月29日に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第24回目の短歌教室があった。

(1) 天平の民の憂いを映せるか阿修羅の眉根に愁いほの見ゆ

  天平時代の仏像は、飛鳥時代のものに比べて「ふくよかな」感じのものが多い。「天平の民の憂い」などという表現は、通俗的だ。「ほの見ゆ」というい方も、詰まった言い方になっており、「ほのかに見ゆ」というべき。また、阿修羅は阿修羅像というべきもの。

→ → → 興福寺の金堂に佇(た)てる阿修羅像少年のごとき愁い滲ます


(2) 「そんなこと和田の人間が言うはずない」祖母言いしとぞ日々想起する

  「そんなこと」の内容が不明であり、これでは隔靴掻痒というもので、添削のしようがない。また、「想起する」の語はかたい印象があり、「折ふし思う」ぐらいがいいのではないか。


(3) 依羅(よさみ)なる言葉を持てるこの国の海と川との豊かさを愛ず

   「依羅(よさみ)」なる言葉は普通誰も知らない。辞書を引かなければわからないような言葉は使わないこと。また、最後に「愛ず」となっており、二音で終わっている。このように、二音で終わるのは出来るだけ避けること。「豊かさを愛ず」よりも「豊かさ愛す」の方がいい。

→ → → 川波と海波とが相世する寄する所をぞ 「依羅(よさみ)」と言いし古え恋おし

今回は、まったくいいところなしであった。


Mさんの歌 :
   「 沈丁花香りただよう路地をきてこともなく過ぎしひと日を思いおり 」

「路地をきて」の「きて」はもう目的地に到着していることを表している。

→ → → 沈丁花かおりただよう路地をきてふと亡き母のなぜか恋しき

→ → → 充実感というには遠しこともなく過ぎゆく日々に不満なけれど

I さんの歌
  「 頑なな心のいつかほぐれきぬ芽柳風になびくを見つつ 」

「頑なな」は間違い。「頑な」でよい。「なびく」は間違い。「なびく」は上に向いている枝が風に吹かれている場合であって、柳は枝が垂れ下がっているので「そよぐ」が正しい。

→ → → 頑な心もややにほぐれきぬ芽ぶきし柳のそよぐを見れば

→ → → 芽ぶきし柳のそよぐを眺めおればいつしか頑な心もほぐれきぬ



3月31日
  Yukikaze


 

2013/03/27

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.3.27)

3月29日の短歌教室用として下記の3首を提出した。

今回も、テーマはばらばらになってしまった。

(1) 天平の民の憂いを映せるか阿修羅の眉根に愁いほの見ゆ
 
  阿修羅の像はいくつかあるそうであるが、天平時代に作られた興福寺の阿修羅像がもっとも有名である。 この阿修羅像は、734年(天平6)に建立された西金堂に造立安置された八部衆のうちの1躯をなしている。 以下は、あるブログに掲載された記事ですが、阿修羅について適確な解説と思い、転載させていただきました。
  「 その像容は、身体に条帛と腰裳のみをつける「三面六臂」の異形です。筋肉を削ぎ落としたような細身の体は腰が高く、繊細で優美な姿をしています。左右両面は、眉を寄せ、唇をかみしめ、やや厳しい表情をしていますが、正面の表情は眉を少し寄せる厳しさの中に、爽やかな美しさを感じます。胸前の合掌手から、仏教に帰依した阿修羅を表現したものと思われます。
  この優しい面持ちの阿修羅像は、本来の阿修羅王は、この像から想像するような優美な神ではありませんでした。 古代インド神話の阿修羅王は、帝釈天を向こうに廻して、荒々しい合戦を繰り返す悪神で、容貌醜怪な札付きの外道とされています。興福寺の阿修羅像は、この神が釈迦の教化によって仏法の守護神となった姿で、天界を暴れ廻る鬼神のイメージはありません。 しかしこの像をよく見ると、例えば、やや眉根を寄せた悲しげにも見える表情の奥に、何か激しいものが秘められているように思えます。 この神秘な表情は、荒々しい心が仏の教化によって迷いから目ざめ、愁眉を開きつつある顔付きだといわれています。まさにその通りで、恐ろしい顔から浄化された顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現しています。一般に仏像は、男でも女でも無いそうです。特にこの阿修羅像は、少年か少女のような清純な優しい顔になっています。また、子供から大人になっていく途中ともいわれています。しかし、清純はともかく、やさしいと言うのは正確ではないようです。」
  この眉根を寄せた悲しみにも見える表情の奥に、私は天平の民衆の苦しみに眉をひそめ、憤りを感じている姿を重ね見るように感じたのであるが、考えすぎであろうか。

  













(2) 「そんなこと和田の人間が言うはずない」祖母言いしとぞ日々想起する

  もうかなり前になるが、亡くなった父からこの言葉を聞いた事がある。「そんなこと」がどんな事だったかは全く覚えていないが、その内容はどうでもいいと思っている。「言うはずない」は「するはずない」と同義語と思い、何か決断をしなければならない時や、そんなに重要なことでなくても、こういう行動をしたらおばあさんはどう言うだろうか、どう思うだろうか、と日々何か事あるごとにこの言葉を想起しリマインドしている。 なお、今年はその祖母の33回忌である。




(3) 依羅(よさみ)なる言葉を持てるこの国の海と川との豊かさを愛ず

  依羅(よさみ)とは、「川波と海の波とが相寄せる所」だそうである。この言葉を初めて知った時、こんな「川波と海の波が寄せ合うところ」に「名称」が付いていることにある種の感慨、感嘆を覚えた。詳しく調べたわけではないが、おそらく、英語、フランス語、ドイツ語、中国語をはじめ、世界のどの言語にも「川波と海の波が寄せ合うところ」に何らかの「名称」が付いていることはないのではないだろうか。そういう意味で、日本語の奥深さと、その背景にある自然の豊かさに改めて感じ入った次第である。 なお、依羅(よさみ)という地名は古事記、日本書紀の時代から知られており、現在でも大阪市南部に依羅(よさみ)の地名が残っているとのことである。この古い地名が、どうして、「川波と海の波とが相寄せる所」という意味にも使われるようになったのかは、よく知らない。


夕景の吉野川河口
新信濃川の河口

2013.3.27
  Yukikaze

2013/03/18

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.3.18)

先週の金曜日、3月15日に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第23回目の短歌教室があった。

(1) 「去る者は日日に疎し」がまことならばいかばかりかとひび思いいる

  先生より、「去る者日日に疎し」とは、以前は親しかった人も遠ざかれば次第に親密さが薄れるものだ、といった意味合いの表現であって、「去る者」は「亡くなった人」ではない、ということの説明があった。 パソコンで検索してみると、「去る者は日々に疎しとは、死んだ者は日が経つにつれ世間から忘れられていき、親しかった者も遠ざかれば日に日に交情が薄れていくということ。 」という説明がトップに出ており、私の解釈もあながち誤りではないように思うが、ここは先生の解釈に従っておきたい。先生の添削
    
→ → →  「去る者は日日に疎し」がまことならばいく人(たり)の友が真の友なる
→ → →  「去る者は日日に疎し」はまことにて友よりの年賀状年ごとに減る


(2) 思惟深めるごとくに指を頬に触れ弥勒菩薩のおもざしやさし
  
    この場面では「思慮」という言葉は重すぎる。また、弥勒菩薩は、目を伏せて下を向いており、「おもざし」というものは持っていない。
  
→ → → 思いを深めるごとくに指を頬にあて弥勒菩薩はまぶた伏せいます


(3) アスファルト持ち上げ破る走り根を羨望もありてあかず見ており   

  「破る」よりは「割れる」の方がいいのではないか、また、羨望という言葉もかたい感じがする。

→ → →  アスファルト持ち上げ割れる走り根を羨望持ちてしばらく見つめる


私の歌ではないが、Koさんの歌

  「 川土手の桜並木の枝枝の薄紫にかすみ春来る 」
  
  先生 : 枝枝が「かすむ」事はないはず。

→ → →  多(さわ)の蕾ふくらみそめしか彼岸近し桜の並木仄(ほの)めきて見ゆ



2013.3.18
  Yukikaze

  

2013/03/14

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.3.14)

3月15日の短歌教室用として下記の3首を提出した。


今回も、テーマはばらばらになってしまった。


(1) 「去る者は日日に疎し」がまことならばいかばかりかとひび思いいる

  この三年間に、父親、次男、妻と三人を見送った。 昔から、「去る者は日日に疎し」と言われているが、私にとっては、この三人が私の脳裏から「疎く」なっていくのは、耐えがたいことだと思う一方、いつまでも亡くなった者にこだわっていることも、また耐えがたいように思え、「疎く」なっていくのが自然なことだとも思える。 要するに、複雑な心境なのです。 その辺を表現してみたのであるが、読む人に伝わるかどうかは?である。


権現堂堤の菜の花と桜
秋の田島団地












(2) 思惟深めるごとくに指を頬に触れ弥勒菩薩のおもざしやさし

  弥勒菩薩は、日本人の心に訴える何かがあって、いろいろな歌が詠まれてきたようであるが、私も挑戦してみた。


広隆寺の弥勒菩薩








         






(3) アスファルト持ち上げ破る走り根を羨望もありてあかず見ており     

    散歩の途中で、下記   写真のようにアスファルトを持ち上げたり、突き破っている走り根を見かけた。 なんとなく羨ましくもあり、ながめ続けたものである。                          

アスファルトを破る走り根(1)
アスファルトを破る走り根(2)

 

走り根


 
アスファルトを持ち上げる走り根
 
2013.3.14
    Yukikaze

2013/03/11

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.3.11)

先週の金曜日、3月8日に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第22回目の短歌教室があった。


(1) 遠縁に名を牛馬(うしうま)とう人ありき好々爺なれど往時しのばす

     「とう」などと言い方はしないこと。きちっと「という」ということ。
            「しのばす」という言い方が、ちょっと無理筋

→ → → 遠縁に牛馬という名の人ありき偉丈夫なりしが好々爺なりき  



(2) 三十年(みとせ)まえ息子と歌いしアニメソング「キャプテンハーロック」持ち歌となる

    今は、三十年を「みとせ」」などとは言わない。

→ → → 幼稚園児の息子とかって歌いにし「キャプテンハーロック」我の持ち歌



(3) 五月(さつき)晴れにみかんの白き花におい妻ありし日の五月(ごがつ)恋しき

     みかんの花が白いのは自明のことであり、白き花などと言う必要はない。
   また、最後は単に終止形の「しのばる」ではなく、下記のように連体形の「しのばるる」とした方
   が「しのばれることよ」という意味になって余韻が残る。 

→ → → 五月晴れにみかんの花のよき香りにおえば今は亡き妻しのばるる


先生より、一般的な注意として、「作者の個性をきちんと出すように心掛けること」というご指摘があった。

2013.3.11
  Yukikaze  




2013/03/08

読書のしおり(その24)  『ヨレハ記』

「ヨレハ記」  小川国夫著  ぷねうま舎  5,880円

  新聞の書評で、「ヨレハ記」のことを知った。私は、キリスト教者ではないが、旧約の時代背景にはなぜか惹かれるものがある。600ページという大作であるが、ほぼ一気に読み終えた。以下に、僭越ながら、各書評を引用させていただきながら、この小説の概要と感想を下記する。

  場所は現在のイスラエルらしい架空の国(町)キトーラ。時代は旧約聖書の中の「後の預言者」の時代だと推測される。しばしばキリスト教について言われる父性原理と、それとは対照的な母性原理が相剋するドラマを描いた小説である。旧約聖書の荒涼とした風土を背景に、人間の裸形を露わにする。1976年から文芸雑誌『すばる』に二年ほど連載され、以後単行本にまとめられることなく放置されていた幻の大作の単行本化であり、旧約聖書の広大で深遠な世界を舞台にしている。

  キトーラと呼ばれる土地に現れた「予言者」ヨレハをめぐるこの物語は、旧約の世界を徹底的に読み込み、イスラエル部族の歴史書と預言書を、自らの言葉として血肉化してきた小川国夫が、そこになお書かれなかった物語があったのではないかという純然たる想像力によって構築した前代未聞の大作である。

  ヨレハという「革命的な」予言者(作者は本作では預言者」を使わない)を巡って、ヨレハに付き添うマジ、富裕なギヅエとその買われた妻エフタ、そこに絡むサヤム(ヨレハを廃して、自らヨレハを名乗る)、ヨレハに傾倒するギサウとその子ゼトらを巡る、複雑な人間と神との、そして人間どうしの関係が、主として、それぞれ異なった一人称形式で描かれる。

  物語の時空は交差しているが、荒野を行く牡牛(おうし)の群れ。青く澄んだ虚空にうごめく雲。葡萄(ぶどう)畑に浮かびあがる黒い粉挽(ひ)き小屋。燔祭(はんさい)に捧(ささ)げられる肉と血の匂い。竪琴(たてごと)の奏でる音。襲い来たる豪雨の響き。雄大な自然と人々の営みを、小川国夫は簡潔にリアルに描き、狂躁(きょうそう)と沈黙、残虐と平和、血と聖水、祈りと戦いの諸相が力強い文体で描き出されている。

   著者の小川国夫は言う「ヨレハとは、 キリスト出現以前の呪術がはびこっている混とん状態に出現し た、呪いの預言者といってよい人物です。このような人物をとり あげたのは、宗教はなぜ発生してきたのか、宗教は人間の外から くるのか、心の奥からくるのか、その両方からくるのだとすれ ば、その関係はどうなっているのか、このようなことを考えてみ ようとしてなんです。」と。

大工の聖ヨセフと少年イエス



シナイ山

  この小説を読み終えての感想は、日本でいえば弥生時代の初めのころの時代であり、本書に登場する旧約聖書の時代状況は、さもありなん、という感じで受け取った。キトーラ国における一般的な庶民の生活、羊飼いや石工たちの生活、奴隷の生活や考え方などが各所で描写され興味深く読んだ。ただ、三人出てくるヨレハの各主張の違いや、なぜ彼らがある一定の人々の支持を受けることができたのか、またなぜ彼らに反発する人々が大勢いて、それらの人々の主張の根拠みたいなものは何なのか、という点がなんとなく漠然とあるいは唐突にほんの少し示されるだけであり、また、語り口は基本的には一人称なのであるが、それが誰なのか、やその場の背景なども最期まで明示されず(少なくとも、私にはそのように受けとれた)、私にとっては、この小説は非常に分かりづらく困惑するところが多々あった。一方、著者小川国夫は、「宗教はなぜ発生してきたのか、云々を考えてみようとした」と語ったとされるが、少なくとも私は、この小説からその答えを読み取ることはできないと思った。こういう手法は小説では一般的なのかもしれないが、私が思うには、小説も含めた文芸というものは、基本的には自分が感動したことを、相手にいかに分かりやすくかつ納得性を持って伝えるかを使命としているものであって、わからなければ、よく読み込みかつ勉強して「わかるように努力しろ」というような独善的な態度では、ちょっと困ったものだと思う。程度の問題なのだろうが、この著者にもその傾向が多分にあるように感じたが、この著者を持ち上げる人たちもたくさんいるようだし、それはそれで仕方ないのかもしれないが、いかがなものでしょうか。


2013.3.8
   Yukikaze




読書のしおり(その23)  『イタリア人と日本人、どっちがバカ?』

読書のしおり(その23) 



 『イタリア人と日本人、どっちがバカ?』  ファブリツィオ・グラッセッリ  文春新書 876

  表書きに「長い歴史を誇りながらも、今では『立派な』借金大国-。敗戦からの奇跡的な復興からアメリカ主導のグローバリゼーションまで。多くの共通点を持つ日伊両国に関して、在日歴20年以上のイタリア人建築家がウイットとユーモアに富んだ比較文化論を展開する。」とある。 私は、この本は、もう少し「くだけた」ものかと思って買ったのであるが、内容は意外と「堅い」感じのものであった。買う前は、日常生活におけるイタリア人と日本人の行動を一つ一つ具体的に比較しながら、「どっちがバカか」を論じるのかと思ったのであるが、実際に読んでみると、日本人に関する部分は最終章の第9章のみであり、それも一言で言うと日本の若い人に対する「警鐘」あるいは「お説教」的な内容である。
 内容は、イタリア北部のミラノ郊外に住む機械技術者の「ビアンキ氏」およびその家族、親類、友人達の日常生活を通して現在のイタリアの問題点を物語風に描いたものである。問題点の最大のものは、イタリアの国家財政の危機的状況である。その危機的状況に至った原因を冷静に分析しつつ、現代イタリアの抱えている問題点をイタリア人の目から適確に論じている。その原因として挙げられているのは、まず第一に、イタリア国内の「南北格差」であり、北部と中部の各州だけに焦点を当てると、一人当たりの国内総生産はイギリス、フランス、ドイツと肩を並べるというよりむしろ高いぐらいなのだ。第二に、債務超過だなんだかんだ言っても最終的には何とかなるのさ、という根拠のない自信にうらうちされた「何とかうまく立ち回る」究極の楽観主義などが挙げられており、著者は、特に南北格差については、かなり深刻な問題であり、その原因がそのままずばりイタリアの現状の問題点に直結しており、その解決なくしてはイタリアの再生はない、というような認識のようだ。
 日本との比較については、あまり明確な表現はないものの、「現在の日本における『格差社会』や一部に人間の『特権』を打ちこわし、外国から押し付けられた『グローバリズム』や『新自由主義』からも解き放たれた、日本の国にふさわしい、真の『民主主義』を実現するべきだ、と言いたいのです。それには、まず家庭の中で、この国と世界の『今』と『未来』について『真剣に話し合う』というところから始まります。つまりこれは、家庭から始まる『静かな革命』です。」という記述が著者の考え方を端的に言い表しているように思える。

  



2013.3.8
  Yukikaze

2013/03/07

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.3.6)

3月8日の短歌教室用として下記の3首を提出した。

今回は、テーマはばらばらになってしまった。

(1) 遠縁に名を牛馬(うしうま)とう人ありき好々爺なれど往時しのばす

もう40年も前、妹の結婚式が徳島の相手の実家で行われた。牛馬さんはその相手のお爺さんだった。かなりの山の中で、周りは見渡す限りのみかんの段々畑。その牛馬という名前にも驚いたが、「ここから見えるみかん畑は全部うちの畑や」とその牛馬さんが言ったのにもまた驚いた。若い時には文字通り牛馬のごとく働いたのだろうが、私が会った時はもう80過ぎの好々爺であった。

耕す牛

農耕馬











(2)三十年(みとせ)まえ息子と歌いしアニメソング「キャプテンハーロック」持ち歌となる

  もう内容は全く覚えていないが、長男が3~4歳の時にこのアニメが盛んにテレビから流れていた。一緒に見ていたらすっかりその主題歌を覚えてしまい、今でもそらで歌える。 メロディーも歌詞もなかなかいい。 私の感性にぴったりだ。

キャプテンハーロックとメーテルのコラボ
キャプテンハーロック











(3)五月(さつき)晴れにみかんの白き花におい妻ありし日の五月(ごがつ)恋しき

  五月は、一年中で一番好きな月だ。秋もいいけれど、風薫る五月が何と言っても最高だ。 ただ、現役時代は、どういう訳か毎年五月は超多忙で、のんびりと五月の風に吹かれるというのは夢のような希望であった。 退職後は毎日が日曜日なので、心行くまでその初夏の風を楽しめると思った矢先、妻が長期の闘病生活に入ってその世話に明け暮れることになり、五月の風どころではなかった。 その妻も昨年なくなってしまい、これからの五月は一人ということで何となく浮かない気持ちでいるところです。

みかん畑
みかんの花














みかんの咲く丘













 2013.3.7
     Yukikaze