2013/03/27

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.3.27)

3月29日の短歌教室用として下記の3首を提出した。

今回も、テーマはばらばらになってしまった。

(1) 天平の民の憂いを映せるか阿修羅の眉根に愁いほの見ゆ
 
  阿修羅の像はいくつかあるそうであるが、天平時代に作られた興福寺の阿修羅像がもっとも有名である。 この阿修羅像は、734年(天平6)に建立された西金堂に造立安置された八部衆のうちの1躯をなしている。 以下は、あるブログに掲載された記事ですが、阿修羅について適確な解説と思い、転載させていただきました。
  「 その像容は、身体に条帛と腰裳のみをつける「三面六臂」の異形です。筋肉を削ぎ落としたような細身の体は腰が高く、繊細で優美な姿をしています。左右両面は、眉を寄せ、唇をかみしめ、やや厳しい表情をしていますが、正面の表情は眉を少し寄せる厳しさの中に、爽やかな美しさを感じます。胸前の合掌手から、仏教に帰依した阿修羅を表現したものと思われます。
  この優しい面持ちの阿修羅像は、本来の阿修羅王は、この像から想像するような優美な神ではありませんでした。 古代インド神話の阿修羅王は、帝釈天を向こうに廻して、荒々しい合戦を繰り返す悪神で、容貌醜怪な札付きの外道とされています。興福寺の阿修羅像は、この神が釈迦の教化によって仏法の守護神となった姿で、天界を暴れ廻る鬼神のイメージはありません。 しかしこの像をよく見ると、例えば、やや眉根を寄せた悲しげにも見える表情の奥に、何か激しいものが秘められているように思えます。 この神秘な表情は、荒々しい心が仏の教化によって迷いから目ざめ、愁眉を開きつつある顔付きだといわれています。まさにその通りで、恐ろしい顔から浄化された顔へと移り行く過渡期の表情を、見事に表現しています。一般に仏像は、男でも女でも無いそうです。特にこの阿修羅像は、少年か少女のような清純な優しい顔になっています。また、子供から大人になっていく途中ともいわれています。しかし、清純はともかく、やさしいと言うのは正確ではないようです。」
  この眉根を寄せた悲しみにも見える表情の奥に、私は天平の民衆の苦しみに眉をひそめ、憤りを感じている姿を重ね見るように感じたのであるが、考えすぎであろうか。

  













(2) 「そんなこと和田の人間が言うはずない」祖母言いしとぞ日々想起する

  もうかなり前になるが、亡くなった父からこの言葉を聞いた事がある。「そんなこと」がどんな事だったかは全く覚えていないが、その内容はどうでもいいと思っている。「言うはずない」は「するはずない」と同義語と思い、何か決断をしなければならない時や、そんなに重要なことでなくても、こういう行動をしたらおばあさんはどう言うだろうか、どう思うだろうか、と日々何か事あるごとにこの言葉を想起しリマインドしている。 なお、今年はその祖母の33回忌である。




(3) 依羅(よさみ)なる言葉を持てるこの国の海と川との豊かさを愛ず

  依羅(よさみ)とは、「川波と海の波とが相寄せる所」だそうである。この言葉を初めて知った時、こんな「川波と海の波が寄せ合うところ」に「名称」が付いていることにある種の感慨、感嘆を覚えた。詳しく調べたわけではないが、おそらく、英語、フランス語、ドイツ語、中国語をはじめ、世界のどの言語にも「川波と海の波が寄せ合うところ」に何らかの「名称」が付いていることはないのではないだろうか。そういう意味で、日本語の奥深さと、その背景にある自然の豊かさに改めて感じ入った次第である。 なお、依羅(よさみ)という地名は古事記、日本書紀の時代から知られており、現在でも大阪市南部に依羅(よさみ)の地名が残っているとのことである。この古い地名が、どうして、「川波と海の波とが相寄せる所」という意味にも使われるようになったのかは、よく知らない。


夕景の吉野川河口
新信濃川の河口

2013.3.27
  Yukikaze

0 件のコメント:

コメントを投稿