2013/03/08

読書のしおり(その24)  『ヨレハ記』

「ヨレハ記」  小川国夫著  ぷねうま舎  5,880円

  新聞の書評で、「ヨレハ記」のことを知った。私は、キリスト教者ではないが、旧約の時代背景にはなぜか惹かれるものがある。600ページという大作であるが、ほぼ一気に読み終えた。以下に、僭越ながら、各書評を引用させていただきながら、この小説の概要と感想を下記する。

  場所は現在のイスラエルらしい架空の国(町)キトーラ。時代は旧約聖書の中の「後の預言者」の時代だと推測される。しばしばキリスト教について言われる父性原理と、それとは対照的な母性原理が相剋するドラマを描いた小説である。旧約聖書の荒涼とした風土を背景に、人間の裸形を露わにする。1976年から文芸雑誌『すばる』に二年ほど連載され、以後単行本にまとめられることなく放置されていた幻の大作の単行本化であり、旧約聖書の広大で深遠な世界を舞台にしている。

  キトーラと呼ばれる土地に現れた「予言者」ヨレハをめぐるこの物語は、旧約の世界を徹底的に読み込み、イスラエル部族の歴史書と預言書を、自らの言葉として血肉化してきた小川国夫が、そこになお書かれなかった物語があったのではないかという純然たる想像力によって構築した前代未聞の大作である。

  ヨレハという「革命的な」予言者(作者は本作では預言者」を使わない)を巡って、ヨレハに付き添うマジ、富裕なギヅエとその買われた妻エフタ、そこに絡むサヤム(ヨレハを廃して、自らヨレハを名乗る)、ヨレハに傾倒するギサウとその子ゼトらを巡る、複雑な人間と神との、そして人間どうしの関係が、主として、それぞれ異なった一人称形式で描かれる。

  物語の時空は交差しているが、荒野を行く牡牛(おうし)の群れ。青く澄んだ虚空にうごめく雲。葡萄(ぶどう)畑に浮かびあがる黒い粉挽(ひ)き小屋。燔祭(はんさい)に捧(ささ)げられる肉と血の匂い。竪琴(たてごと)の奏でる音。襲い来たる豪雨の響き。雄大な自然と人々の営みを、小川国夫は簡潔にリアルに描き、狂躁(きょうそう)と沈黙、残虐と平和、血と聖水、祈りと戦いの諸相が力強い文体で描き出されている。

   著者の小川国夫は言う「ヨレハとは、 キリスト出現以前の呪術がはびこっている混とん状態に出現し た、呪いの預言者といってよい人物です。このような人物をとり あげたのは、宗教はなぜ発生してきたのか、宗教は人間の外から くるのか、心の奥からくるのか、その両方からくるのだとすれ ば、その関係はどうなっているのか、このようなことを考えてみ ようとしてなんです。」と。

大工の聖ヨセフと少年イエス



シナイ山

  この小説を読み終えての感想は、日本でいえば弥生時代の初めのころの時代であり、本書に登場する旧約聖書の時代状況は、さもありなん、という感じで受け取った。キトーラ国における一般的な庶民の生活、羊飼いや石工たちの生活、奴隷の生活や考え方などが各所で描写され興味深く読んだ。ただ、三人出てくるヨレハの各主張の違いや、なぜ彼らがある一定の人々の支持を受けることができたのか、またなぜ彼らに反発する人々が大勢いて、それらの人々の主張の根拠みたいなものは何なのか、という点がなんとなく漠然とあるいは唐突にほんの少し示されるだけであり、また、語り口は基本的には一人称なのであるが、それが誰なのか、やその場の背景なども最期まで明示されず(少なくとも、私にはそのように受けとれた)、私にとっては、この小説は非常に分かりづらく困惑するところが多々あった。一方、著者小川国夫は、「宗教はなぜ発生してきたのか、云々を考えてみようとした」と語ったとされるが、少なくとも私は、この小説からその答えを読み取ることはできないと思った。こういう手法は小説では一般的なのかもしれないが、私が思うには、小説も含めた文芸というものは、基本的には自分が感動したことを、相手にいかに分かりやすくかつ納得性を持って伝えるかを使命としているものであって、わからなければ、よく読み込みかつ勉強して「わかるように努力しろ」というような独善的な態度では、ちょっと困ったものだと思う。程度の問題なのだろうが、この著者にもその傾向が多分にあるように感じたが、この著者を持ち上げる人たちもたくさんいるようだし、それはそれで仕方ないのかもしれないが、いかがなものでしょうか。


2013.3.8
   Yukikaze




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