2009/10/02

読書のしおり -その12 『 ドイツ料理万歳 』

 読書のしおり -その12 『 ドイツ料理万歳 』  川口マローン恵美 平凡社新書 777円

西洋料理と言えば、大体がフランス料理とかイタリア料理だ。 たまには、英国料理やスペイン料理や稀にはギリシャ料理などもあるが、ドイツ料理はほとんど聞いたことがない。 ドイツと言えばすぐ思い浮かぶのがビヤホールであり、これはたぶんビールが主体であって、つまみにソーセージが出てくることはあっても、料理は副次的なものであってそれもジャガイモが主ではないか、と思っていた。 そういうわけで、書店の店頭でこの本を見かけたとき、「そういえば、通常ドイツ人はいったいどんな食べ物を好みかつ食べているのだろうか」という素朴な疑問が浮かんできてあまり躊躇しないで買ってしまった。 著者は、生年月日が書いてないので正確な年齢は分からないが、たぶん50歳前後の方で、ドイツ人と結婚して、もう25年間ドイツ西南部のシュトゥットガルトに住んでいる日本人女性である。
本書で紹介されているのは、豚肉料理、ワイン、ビール、チーズ、川魚料理、ジャガイモ料理、ソーセージ、そのほかアスパラ、コーヒー、ケーキなどであるが、著者の意気込みにもかかわらず、まことに申し訳ないが正直言って「大枚をはたいてわざわざ食べに行きたい」と思うようなものはなかったように思う。 まず第一に、いずれもなんとなく味が大ざっぱな上ボリュームが多い、という印象が残った。 第二に、味付けがこれまた大雑把というか極端に塩辛いか反対にほとんど味がない、というものが多そうだ。 第三番目は、食事のマナーというか、ワイワイガヤガヤ大騒ぎをしながら、あるいはぺちゃくちゃぺちゃくちゃ饒舌におしゃべりをしながらの食事が大好きなのだそうだが、自分にとってはあまり性に合いそうにない。
そうは言っても、よくよく読んでみると、断片的には自分の性に合いそうなものも中にはありそうだ。 たとえば、川魚の料理だ。 ドイツは北方の3州波歯科海には面しておらず、多くのドイツ人にとっては、海はあまり生活とは縁のないものらしい。 そういうわけで、ドイツで魚と言うと伝統的には川魚となる。 ニジマスはドイツで一番食べられている魚であって、取れたてを、グリルか、水煮か、あるいはソテーしたもの、特にソテーしたものにアーモンド・バターソースをかけ、塩ゆでのジャガイモの突け合わせで食べる、というのは、著者も言っているがかなりいけるのではないかと思う。 そのほか川魚の燻製したものにサワークリームに塩、コショウ、香草、レモン汁などで作ったソースをかけて食べるのもおいしそうだ。 その墓には、ソーセージ。 ドイツには、1500もの種類のソーセージがあるそうである。 茹でソーセージや生肉ソーセージなどがあるそうだが、茹でソーセージの一種の白ソーセージを地元のビールとブレッツェルという南ドイツのお菓子と甘みのあるマスタードで食べるのは如何にもおいしそうだ。 それから、ワイン酒場べーゼンというのも面白そうだ。 ベーゼンというのは、農閑期にワイン農家が商売気を抜きにして一時的に開いているワイン酒場のことだそうだ。 普通の農家が酒場になっているので、見つけにくいが、目印はその農家の入り口に掲げられている「箒(ほうき)」だそうだ。 農家の家庭料理をつまみにその農家が作ったワインを世間話をしながら飲むという雰囲気も悪くはないような気がする。 ただ、ベーゼンには当たりはずれも多いようだ。 また、ドイツ人にとっては、ケーキとお茶とおしゃべりと散歩は、切っても切れないワンセットであり、それをものすごく大切にし、かつ楽しみにしている、というのも何となく分かるような気がする。
ドイツと言えば、ビール。 毎年、10月に2週間かけて開催されるミュンヘンのオクトーバーフェストというビール祭りは、2009年が176回目になるかなり有名なお祭りらしい。 会場には各ビール会社の巨大なテント村がいっぱい出現し、たとえば、ホーフブロイ社のテントに至っては、内部に6900人、戸外にも3000人収容できるというから、その巨大化が分かる。 このようなテントがたくさん設営され、この2週間の間に600万人の人が訪れ、500万リットルのビールが消費され、50万羽の鶏が食されると聞けば、いかに巨大なビール祭りか想像できようというものだ。 これも一度は行ってみたい気がする。
以上、ドイツに関心がある、あるいは行く予定がある方は一度目を通しておいても損はないのではないかと思います。

’09.10.2
   Yukikaze

2009/10/01

読書のしおり -その11 『 縄文の思考 』(5/5)

読書のしおり -その11 『 縄文の思考 』(5/5)  小林達雄 ちくま新書 735円

山は高ければよいというのではない。 高さを誇るというよりも、むしろ容姿が発散するオーラ、風格が縄文人の目を魅きつけ、縄文人の気を魅く。 そのような山は、近くであろうと遠くであろうとそれ相応の見栄えがするが、頂上と言えば岩肌丸出しで草木もまばらでうそ寒い。 獲物もほとんど寄り付かないし、とても住みついて生活するところではない。 そんな頂上にも縄文人は確かに登っているのだ。 どんな用があったというのか、見当もつかない。 登山の本場ヨーロッパでさえも、山登りを目的とするようになったのはせいぜい13世紀以降のことであるそうだ。 そこに山があるから登る、という思いで頂上を目指すのは原始性を断ち切った新人間になってからである。 北海道の大雪山系の白雲岳、岩手県八甲田山、長野県八ヶ岳編笠山、滋賀、岐阜県境の伊吹山神奈川県大山などなどにおいて山頂から縄文文化の遺物が発見されている。 縄文人は、仰ぎ見ることで、はるかに隔たる空間を飛び越えて情意を通ずるのだ。 その積極性の現われが、ストーンサークルであり巨木列柱や石柱列や土盛遺構の位置取りを山の方位と関係づけて配置したことである。 さらにそうした山頂、山腹と二至二分における日の出、日の入りを重ね合わせる特別な装置を各地、各時期に創りあげたのである。 しかし、ムラと山頂との距離はいかに頭の中で観念的に越えて一体感に浸ることができたとしても、物理的距離は厳然として存在し、信念、信仰の縄文人魂だけでは到底埋めることはできない。 手を伸ばしても届かない山頂を呼び込むことは不可能だ。 この壁を打開するために、時には縄文人は自ら山頂を目指す決意をし、ついに実行に移したのだ。 こうして、山を仰ぎ見るだけでは手応えに不安が残る思いを解消するための具体的な一歩を踏み出したのだ。 そして、直に山頂に足跡を残し、山の霊気と接触することで自らの意思を伝え、交感することができたのであった。 縄文人が仰ぎ、時には登ることもあった山は、目に見える単なる景観の一部ではなく、縄文人によって発見された精霊の宿る特別な山であった。 この想いは縄文時代の終焉とともに忘却の彼方に押しやられたのではなく、縄文人の心から弥生人の心にも継承され、「修験者のような山岳宗教」や「山の神」などの形で、現代までも日本人の心の奥底に脈々と受け継がれているのではあるまいか。 山に対する信仰は、世界中で様々な形態があるが、日本のような精神的に内化した山のイメージといったものはないそうである。 石川啄木に『 目になれし山にはあれど秋くれば、神やすまふとかしこみて見る』、『 汽車の窓はるかに北に故郷の山見えくれば襟をただすも 』という歌もある。 かくのごとく、山に対する日本人の心には、日本の伝統的文化の象徴性が見えるような気がする。 以上に紹介したことや、添付写真の「 合掌土偶 」などにみられるように、縄文人は、高い精神性を持っていたことを改めて認識した次第である。
「結びにかえて」において、著者は、縄文文化が、現在の北海道から対馬、沖縄までの現在の日本列島の範囲に見事におさまっている理由について、面白い見解を述べている。 すなわち。現在の日本列島以外に縄文文化が波及していないのは、言葉の問題があり、彼我とは言葉が違い、文化が異なっていたからではないかと。 そのほか、本書には、縄文人の「人間宣言」、住居、居住空間、家族、炉、埋甕、交易、「気っぷ」の贈与、右と左、などの章立て、項目があり、縄文人、縄文文化について、その異常ともいえる「こだわり」をはじめとする精神面からその特徴を明らかにしており、それについての格好の入門書である。 本書を読んで、一度、現代の生活においてはほとんど意識されることがないけれども、われわれ日本人の深層心理に深く刷り込まれているであろう「縄文人の心」を呼び覚ましてみることは、大いに意味のあることだと思う。(完)


’09.10.1
   Yukikaze

読書のしおり -その10 『 縄文の思考 』(4/5)


読書のしおり -その10 『 縄文の思考 』(4/5)  小林達雄 ちくま新書 735円

ムラでの生活が進むにつれて、ムラは一つの型に整備され、公共的広場をムラの中央に置いた縄文モデル村が完成する。 しかし、日常生活にとっての必要十分な施設の種類と数はほぼ出そろい、型通りに配置されても、その勢いは決して終息しようとはしなかった。 むしろ縄文人意識、アイデンティティーの確認は、鎮静に向かうどころか、余勢をかって更なる主張を目指して、予想を超えた動きを始めた。 日常生活と密接にかかわる諸施設とは、全く性質を異にするモノの創造である。 そのモノは、その実現のためには日常的諸施設に比べて数十倍はおろか、数千倍もの動員と年月を必要とするのである、というよりも量的な勘定の次元を超えている。 つまり、それほどまでに人手と時間をかけるほどの、やむにやまれない必要な機能が意識されていたからに他ならない。 要するに、この記念物=モニュメントと呼ばれるものは、腹の足しにはならないが、その代りに頭、心の足しになるものである。 著者は、巨大な石を何らかの規則性をもって並べている例などをいくつか挙げている。一例をあげれば、大湯環状列石においては、その配石遺構に用いられている石材は7,300余個に達する。 その多くは独力では持ち上げることができない大きさ、重さであり、さらに3人がかりでも動かせないほどのものさえ少なくない。 それらをすべて遠方7キロメートルも離れた安久谷川上流から運び込んでいるのであるから、並大抵の決意ではない。 しかも扱いに適当な大きさのものでよしとするのではなく、はたまた遠距離も厭わず、これと決めた種類の石とその供給地にこだわる彼らなりの頑固な理屈で動いていたのだ。 一方、巨大な柱を立てたりする例が東日本のあちこちで見つかっているが、とりわけ、縄文中期の三内丸山遺跡の6本柱は、現代人の感覚からすればまるで常軌を逸する、としか言いようがないものである。 とにかく、直径2メートルの穴を深さ2メートル以上も掘りこんでおり、その穴の底には直径1メートルの巨大木柱の根っこが腐りきらずに残っていた。 巨木の調達、伐採、枝はらい、運搬そして穴掘り、立てる段になっても、さらに人手と時間が必要とされる。 巨木柱が天を衝いて、すっくと立ち上がること、六本であること。 あるいは、縄文人の世界観の中に見られる整数三が向きあったり、整数三の倍数としての六の効果。 そうした要素が込められた、記念物の面目を確かに見て取ることができる。 しかも、三本向き合って並ぶ方位は、なんと夏至の日の出および冬至の日の入りとあやまたず一致しているのである。 その時刻ならば、柱列の間に放射状のダイヤモンドビームが現出するのだ。 とにかく、縄文人が、夏至冬至春分秋分(二至二分)を彼らの知に体系に組み込んでいた事実を見落としては、縄文人、縄文文化の本質を見誤ってしまいかねないであろう。 二至二分は、各地の縄文人が、ひとしく認識していた知的財産なのである。
栃木県寺野東遺跡の環状土盛は、直径165メートル、全体の高低差は約5メートルである。この遺跡を精密に発掘調査してみた結果、この遺跡の土盛作業は、開始されてから1000年にもわたる長期間継続していたことがわかった。 三内丸山遺跡の土盛においても、ざっと1500年間もの驚くほど長期の継続工事であることが判明している。 このように土盛工事が10年単位ではなく、100年単位を持って数えるほどの長期にわたる事実に改めて注意しなくてはならない。 いく世代もかけて継続する理由が厳然としてあったという事実は無視できない重大事である。 これらを突き動かした具体的な内容は、容易には知ることはできないが、その間意味が維持され続けていたとなれば、むしろ長期間の造営工事そのものに重大な意味を認めなければならない。 著者はここで言う。 記念物としての環状土盛は、完成はもとより、未完成ということすら埒外において、ただひたすら造営を継続する行為が重要だったのではないかと。 記念物の本領はまさに未完成にこそあるのだ。 完成をただ目標とするまでの未だ到達していない未完成というのではなく、年々歳々工事が継続する限り、刻々と変化する形態そのものが厳然たる完成であり、その完成は、次の完成までの未完成である。 その静止状態は、もはや不動の存在としてあることにおいて、安定するのであり、一連の工事の究極の姿としてひとまず完成することとなるのである。(つづく)

’09.10.1
   Yukikaze

読書のしおり -その9 『 縄文の思考 』(3/5)

独りよがりの読書感想 -その9 『 縄文の思考 』(3/5)  小林達雄 ちくま新書 735円

さまざまな特産品の中でもヒスイはとりわけ特別な存在である。第一に、その原産地は、他に類似品はあるものの糸魚川市の山中一か所に限られているにもかかわらず、縄文列島全域に広くいきわたっている。 第二に、これまでいろいろな石器材料として利用されてきた石器材料とはまるっきり異質の特色、すなわち、他の同類の滑石などに比べて歯が立たないほどの圧倒的硬さを誇る。 入手が困難で、かつ加工が容易ではない。 いかにも玉類の材料としては、きわめて不利な代物であるにもかかわらずヒスイに執着を示してやまないところに縄文人のこだわりがある。 よほどの事情があってのこととしなければならない。 確かにヒスイの色合い、輝きは魅力にあふれている。 しかし、どれほど感性に訴えたとしても、常識的には、これほど物理的に不利な条件を簡単に払拭することは到底できない相談である。 それを超えさせたものとはいったい何であろうか。 とにかくそれほどの悪条件を備えたヒスイを、縄文人は結局モノにして、見事な球(ぎょく)に仕上げたのである。 具体的な理由をはっきりと知ることはできないけれども、縄文人が辿ってきた長い歴史、経験の蓄積から醸成された総合力の意外な表れとしか言いようがない。 ヒスイについては、著者は、以上の観点に加えて、以下の3点を指摘している。 その1は、不利な条件や障害があると、諦めてしまうかといえば、そうではなく、かえって闘争心をかき立てられるのが人間であり、人間縄文人の精神にもヒスイに直面した時にそのような闘争心が働いたと見ることができる。 縄文中期のことである。 その2として、縄文後期から晩期に勾玉(まがたま)が出現したことである。 勾玉は、それまでにない全く新しく独特の形状であり、縄文人が独自に発明した誇るべきカタチであり、他には世界のどこを探してもない。 勾玉は弥生時代以降、古墳時代にも大いに発達し、歴史時代に入ると、三種の神器の一つとなり国体の象徴ともなった。 その3は、ヒスイの穿孔技術に関する縄文人の画期的な新技術の発明についてである。 その発明とは、石の錐(きり)を用いた力ずくの方法では歯が立たないと見るや、乾燥させた中空の篠竹などの中空の錐を用意し、ヒスイより硬い石英の粉末を研磨剤として活用することで、穿孔可能となったのである。 この方法は、柔い中空錐の回転運動と対象物への研磨剤による干渉という二つの作用の組み合わせであり、縄文人独自の発明としての漆技術と並んで次元の高い、画期的な技術として評価されるべきものである。(つづく)

’09.10.1
   Yukikaze

読書のしおり -その8 『 縄文の思考 』(2/5)

 読書のしおり感想 -その8 『 縄文の思考 』(2/5)  小林達雄 ちくま新書 735円  



縄文土器は現在確認されている一番古いものは、青森県で出土した一万6千年前のものがあるそうであるが、縄文文化的な型式の土器が定着するのは草創期後半、すなわち1万2千年~1万3千年前ころからである。 ここで注目すべきは、これらは世界で一番古い土器であって、その次に古い西アジアや南アメリカの約7500年前のものに比べて断トツに古いということだ。 日本人はもともとものつくりは得意であったというわけだ。 さらに、容器としての機能のイメージを見事に実現化した土器の革新性は、人類史上において極めて重要である、とも指摘している。 一方、縄文土器の広がりは、そのまま縄文文化圏と一致し、広く北海道から沖縄まで分布するが、台湾にはない。 縄文土器として有名なものに「火炎土器」なるものがある。 縁には大仰な突起があり、胴が細く、くびれたりしている。 なぜ縄文人は容器としては極めて使い勝手の悪いデザインを作り続けたのか。 かといって、縄文土器は容器の形態はしてはいるが、単なる物を一時的あるいは長期にわたって貯えたりしたものではなく、ほとんどすべてが食物の煮炊き用に供されていたのも事実である。 ここに、縄文人特有の哲学があるのであり、容器に使い勝手の良さを求めるのではなく、使い勝手の良さを犠牲にしてまで容器にどうしても付帯しなければならない何かがあったのだ。 この何かが縄文人による縄文デザインの真骨頂なのだ。 さらに、縄文土器を用いた煮炊きによって、植物食の開発と利用が飛躍的に促進され、その食糧事情は旧石器時代とは比較にならないほど安定し、大陸における農業を基盤とする新石器文化に負けを取ることなく堂々と肩を並べるほどになったのである。
石器の中で最も一般的な石鏃作りにもこだわりが認められ、黒曜石、頁岩、安山岩などについて、地方や、時期によって人気やははやりすたりがある。 特に、黒曜石については、縄文時代の土中深く掘りこんだ採掘抗があちらこちらで複数個所確認されている。 北海道白滝や置戸の黒曜石は、全道に普及していたばかりでなく、樺太やシベリアにまで運ばれているし、佐賀腰岳産の黒曜石も良質で、朝鮮半島にまでわたっている。 また、青森県深浦産の黒曜石は、長野県や新潟県にまで運ばれてきている。 石鏃や石槍には黒曜石以外でも十分に用が足りるのであるが、何よりも縄文人の強いこだわりが窺われる。 特定の石材に実用性を超えた何らかの価値が付与されたためであり、精神文化にかかわる問題が含まれている。(つづく)


’09.10.1
   Yukikaze

2009/09/28

読書のしおり ー その7 「 縄文の思考 」(1/5)

 読書のしおり感想 -その7 『 縄文の思考 』(1/5)  小林達雄 ちくま新書 735円  

著者小林達雄氏は、丹念な実証研究に基づきつつ、つねに考古学に新しい地平を拓いてきた縄文考古学の泰斗である。 縄文時代というのは、今からおおよそ1万2千年~1万3千年前から3千年前までの約1万年間の期間である。 1万年間もの間一つの文化的枠組みを維持しながら続くというのは、世界的にも珍しい例である。 この1万年間に隣の中国では、本格的な農耕が始ったり、素晴らしい青銅器を作ったり、というような技術が発達した。 また、遠くエジプトでは壮大なピラミッドが作られるというような時代に相当する。 それらを横目で見て、どうも日本列島の縄文文化というのは長い足踏み状態だった、外国のいくつかの地域では次から次に新しいことを始めているのに停滞していたのではないか、というような見方が長く続いてきた。 しかしと小林氏はいう。 どうもそれは一方的な見方ではないか。 文化、経済、社会というものは、どんどんよりよい形で、より高い水準を目指して一直線に進んで発展して行くものであるという、神話のようなものにとらわれすぎているのではないか。 おもに近世以降の西欧的思考をベースに進んできた帰結として、最近地球規模で顕在化しているさまざまな事象、問題点を背景に思考してみると、どうも縄文文化を一方的に遅れた、あるいは極めて内容の低い文化であると決めつけるわけにはいかないのではないか、むしろ一万年もの間充実し、内容を豊かにしてきたというように縄文文化をとらえることができるのではないか、と。 そういう意味で、本書は、著者渾身の作であると共に、縄文文化への恰好の入門手引書となっている。 以下、興味深かったいくつかにの点について、本書からの引用文がほとんどとなってしまったが、紹介してみたい。(つづく)

’09.10.1
   Yukikaze

2009/09/24

読書のしおり - その6 『 おまけの人生 』(2/2)








『 おまけの人生 』(その2/2)  本川 達雄  阪急コミュニケーション  1575円


物理の時間は無限のベルトコンベアであり、今は一瞬でしかないのであるが、それに対し、生物の時問は今しかなく、その今とは、ある長さをもったベルトコンベアであり、それを各生物が回して今という時を作り出している。 このような時問が生物にとって意味のある時問であり、このような時間こそが各生物の存在そのものである。 生物の時間は、ある長さのベルトが回っている現在しかない。 そのベルトが回りきると、次のベルトを回し始め、それが次の現在となる。 生物はこのような現在にしかかかずり合わないのである。 現在とは観念的な一瞬ではなく、今の行為が持続しているある長さをもった実在のものとして現在は捉えられるである。 このように現在もある幅をもつたものであるので、今という時間にも前後がある。 ただし、無限に先や後があるのではなく、前後は断ち切れており、前の時間やその後の時間とは断絶しているのが今という時間である。 生物はエネルギーを使って時間をつくり出しており、エネルギーを使わず時間を生み出さなくなれば、それが死ということになる。 そう考えると、生きているとは生きている時聞そのものであり、生物は時間そのものだとも見ることができる。 物理的見方で過去を思い出すとすれば、過去は一本の長いベルトであり、たぐればどんどん昔に遡ることになるが、生物学的に考えれば、過去とは短い独立のベルトコンベアが、ずらっと並んでおり、ぶつぶつ途切れて、かつ隙間なく並んでいる。 そして、現在という時間も一つではなく、違う生きものは違うベルトを回しているのであるから、それぞれの現在があるわけで、過去とは一本のベルトをずっとたぐっていける一次元の線のような帯のようなものではなく、現在のたくさんあるベルトコンベアをy軸に並べ、それぞれの過去のべルトコンベアをx軸に並べると、xy平面を埋め尽くしているのが全世界ということになる。 したがって、時間は、線ではなく面として捉えられる、と先生は言うのである。 もちろん、生きていないものにも時間が流れている。 太陽や地球の内部エネルギーによって、多くのものは変化するが、これらには、それぞれ、生きものとはまったく別の時間が流れており、すべて存在するものにはそれぞれの時間が流れているということになる。
要するに、先生が言いたいのは、人間でいえば、子供は子供の時間、若者は若者の時間、老人は老人の時間がそれぞれあるのだし、ネコにはネコの時間、ナマコにはナマコの時間、モンシロチョウにはモンシロチョウの時間がy軸上にずらっと並んでおり、x軸上には現在のそれぞれのベルトコンベアが違った速度で回っているということらしい。 そして、生、老、死もその時々のベルトコンベア上の“現在“という観点で考えるべきであって、ニュートン力学における”神“が作った唯一の時間というベルトコンベアに乗せられて無為に運ばれていく存在と考えるべきではない、と。
そのほかにも「正法眼蔵」を著した道元禅師の言葉を引用しての解説など、紹介したいところもたくさんあるが長くなるので割愛する。
以上のような考え方は、まったくユニークなものであって、ほかにこのような考え方を、読んだり聞いたりしたことが無い。 若者の時間、老いの時間というのも面白いが、過去、現在、未来、はたまた、生前の時間、死後の時間との関係についても、もう少しつっこんで考察されていれば、さらによかったと思う。 いずれにしても、この本からは、「 時間 」の感覚、観念について、コペルニクス的転回に近い教示を受けたのも事実である。 ペットとして犬や猫を飼っている方も多いのではないかと思うが、先生によれば、犬やねこの時間は、大雑把に言って、人間の感覚の2~4倍の速さで流れているのであるから、そのつもりで接する必要がありそうです。 例えば、ねこと30分も遊んでやれば、ねこにとっては、人間の時間間隔にして、1時間~2時間遊んでもらったことになり、いい加減飽き飽きしているのではないかと。 

’09.9.24
   Yukikaze 

読書のしおり - その5 『 おまけの人生 』(1/2)









『 おまけの人生 』(その1/2)  本川 達雄  阪急コミュニケーション 1575円

本書の著者、本川氏は、一時有名になった「 ゾウの時間 ネズミの時間 」(中公新書)の著者でもある。 その「 ゾウの時間 ネズミの時間 」は、ずいぶん前に読んで、もうその詳しい内容は忘れてしまったが、なんとなく印象に残っていた本である。 本書にもその話が出てくるので、もういっぺんおさらいをするつもりで読んでみた。
まず、著者はテレビを見ない、という話とナマコへの愛着の話が出てくるが、ここではそれらは省略して先に進む。 以下、先生の主張、考え方を、本書に内容に沿って、見てみたいと思います。 ほとんどが、本書からの抜書きとなってしまいましたが、あしからずご了承ください。

確か、「 ゾウの時間 ネズミの時間 」の中にも書いてあったと思うが、先生は、「 動物の時間 」について統計的な考察の結果、次のような結論を導いている。 すなわち、哺乳類や鳥類という恒温動物の場合、ゾウでもネズミでも、心臓の拍動の間隔、腸の蠕動の時間、血液が全身を一巡する時間、懐胎時間、寿命などは大雑把に言うと、体重の1/4乗に比例する。 また、一生の間に打つ心臓の拍動回数は約15億回ということである。 心臓が15億回打つとゾウでもネズミでも人間でも死ぬということである。生きものの世界を考えると、ゾウにはゾウの時間があり、ネズミにはネズミの時間が流れているのだ、と先生は主張する。 なぜそうなるのかは、今のところはわからないのであるが、とにかく、時間は動物によって違い、体重の四分の一乗に比例してゆっくりになる。 一方、エネルギー、すなわち「 食べる量 」に着目し単位体重あたりのエネルギー消費量と体重の関係を調べてみると、エネルギー消費量は、体重の四分の一乗に反比例して減っていくことが分かったそうである。 面白いことに、ここでまた「 体重の四分の一乗 」という関係が出て来るのである。 時間は体重の四分の一乗に正比例して長くなっていくのに対し、エネルギー消費量は体重の四分の一乗に反比例して減っていく。 つまり時問とエネルギー消費量は、ちょうど反比例の関係になる。 反比例であるので時間とエネルギー消費量をかけ算してやると、体重の項が消えてしまい、体重によらない一定値になる。 すなわち、たとえば心臓が一回ドキンと打つ時間を例にとると、一回打つ間に、ゾウもネズミも私たちも、同じ量のエネルギー( 2ジュール )を使うということであり、2ジュールを、ネズミは0,1秒の「ドッ」の間に使ってしまうし、ゾウは「ドーッキーン」と約2秒かかつて使う。 長短はあるが、どちらも心臓時計一拍子の間に使うエネルギー量は同じだということである。 心臓は、一生の間で約15億回打つのであるから、一生の間に使うエネルギーは、単位体重当たり、15億回×2ジュール=30億ジュールで、みな同じになる、ということである。 そして、一生に食べる量もみな同じになる。 エネルギー消費量というのは、物理学的に言えば仕事量であるから、結局一生の問にする仕事量はみな同じ。 それをゾウは七十年かけてゆっくりやる、ネズミは二年くらいで全部パッとやってしまう、ということになる。 話は非常に簡単であって、哺乳類という同じ機械を考えた場合、これを一回転させるのに2ジュールのエネルギーを使い、十五億回回転すると壊れるようにできている。 そういう機械だから、速く動かせば早く壊れてしまうし、ゆっくり動かせば長持ちする。 だけど一生の間に同じだけのエネルギーを使って、同じだけの仕事をする。 とすると、ゾウのように長生きしてもネズミみたいに短命でも、死ぬときには、ほとんど同じくらい生きたという感じを持って死ぬのかも知れないのだ。 このように考えると、時問は長ければいいという話ではなく、ネズミは二年ぐらいでワーツとみんなやつてしまうわけだから、時間の密度がすごく濃い。 逆に、ゾウなんて密度が低いスカンスカンの時間。 時間に質の違いがあることになる。 時計の時間( 絶対時間 )には質の違いはないのだが、動物の時間は、それぞれの動物によって質が違い、それぞれの時間の中でそれにふさわしい生き方をしているのが動物だ、ということになる。 動物の時問に質の違いがあるとすれば、その動物のことを理解するには、その動物の時間まで配慮していろいろな生き物と付き合いをして、初めていろいろな動物の世界が見,えてくる。 そうなると、世界が重層的に見えてきて、とても面白い。
一生の間に心臓が十五億回打つといったけれども、じつは人問の場合は、十五億回打っても四十歳ほどであって、今の寿命の半分程度なのだそうである。 でもこれは見当はずれの数字ではなく、長い人類の歴史を通して、寿命はずっとそのくらいだった。 例えば、戦前だって平均寿命は五十歳だった。 老眼、白髪、閉経 など老いの兆侯は、な四十歳台から現れ、老いた動物は、自然界にはいないのが原則、すなわち、ちょっとでも衰えると、たちまち野獣や病原菌に食われてしまう。 人間について言えば、五十歳以降の老いの時問というものは、本来存在しないものであり、医療技術等により、人為的につくられたものである。 だから言ってみればこれは「 おまけの人生 」であって、そういう意味でも、現在、ほとんどの人が享受できるようになった長い老いの時間は、若い時の時間とはまつたく違う異質なもの、と考えるべきである。エネルギーを使うと生物の時間が流れる( 生み出される )という考えは、生きている時間を特別のものとして捉え、それだけが意味のある時間だとみなす。 言い換えれば、生きている時間( 今生きている時間、つまり「 現在 」 )しか生物にはないとも考えられる。 これは、生物のことを考えれば、当然と言えば当然の話なのであって、過去は記憶であり、未来は期待であるということを考えれば、どちらも人間の脳味噌が紡ぎだしたものに過ぎない。 他の生物にそのような観念はないと考えてよく、結局、生物の時間には「 現在 」しか存在しないことになる。

’09.9.24
   Yukikaze

2009/09/23

読書のしおり ー その4 「 ヒトラーの経済政策(世界恐慌からの奇跡的な復興) 」






『ヒトラーの経済政策(世界恐慌からの奇跡的な復興)』  武田知弘 祥伝社新書 819円

本書は、ヒトラーの経済政策を追求することをテーマにしている。 アドルフ・ヒトラーは言わずと知れた第二次世界大戦最大の戦争犯罪人であり、悪の代名詞にもなっている人物である。 しかし、と著者はいう、だからと言って彼らの行為が全て否定され定位ということではないだろう。ヒトラーやナチスという存在は、構成において「全否定」に近い評価をされてきたが、彼らは一時的にしろ、ドイツ経済を崩壊から救い、ドイツ国民の圧倒的な支持を受けていたこともあり、後世の経済政策のヒントになるようなこともたくさんあるのではないだろうか、と。
ヒトラーが政権を取ったときに、ドイツは疲弊しつくしていた。第一次世界大戦で国力を使いはたしていた上に、多額の賠償金まで課せられた。「多額」と一口に言うが、具体的に言うと1929年当時で、ドイツの歳入の1/3近くを賠償金に充てなければならず、1930年代には世界恐慌の影響でドイツも歳入が大幅に落ち込み、歳入の半分近くを賠償金に充てなければならなくなっていた。これが1988年まで続くのであり、とてつもなく重い負担であることは火を見るより明らかであろう。 しかし、ヒトラーが政権をとるや否や、経済は見る間に回復し、2年後には先進国のどこよりも早く失業問題を解消していたのである。 ヒトラーの経済政策は失業解消だけにとどまらない。 ナチス・ドイツでは、労働者の環境が整えられ、医療、構成、娯楽などは、当時の先進国の水準をはるかに超えていた。 国民には定期的にがん検診が行われ、一定規模の企業には、医師の常駐も義務付けられた。 禁煙運動やメタボリック対策、有害食品の制限などもすでに始められていた。労働者は、休日には観劇や乗馬をたのしむことができたし、毎月わずかな積み立てをしていれば、バカンスには豪華客船で海外旅行をすることもできた。 また、労働者には有給休暇、健康新案、福利厚生が導入され、食の安全やアスベスト対策やそのはか大規模店舗法を定め、公務員の天下りも禁止した。 ドイツ国民も、ヒトラーやナチス・ドイツに対してけして悪い印象を持ってはいなかった。 1951年に西ドイツで行われた世論調査では、半数以上の人が1933年から1939年までが最もいい時代だったと答えている。 この時期は、ちょうどヒトラーが政権を取ってから戦争を始める前までの期間である。 つまり、戦争さえ起こさなければ、ナチス・ドイツは国民にとって最もいい国だったということができるのである。 ナチス・ドイツは、共産主義でもなく、資本主義でもない、独自の経済路線を敷いていた。 資本主義の活力を生かしながら、過度な競争、大企業の横暴な振る舞いには制限をかける。 社会主義のようにすべてを管理することはしないが、社会のセーフティーネットはしっかり整えていく。 著者は、以上のように、ヒトラーやナチスを全肯定するわけでもなく、全否定するわけでもなく、冷静にかつ客観的に彼らの経済的施策を分析している。
このナチス・ドイツの経済政策の成功については、天才財政家シャハトを抜きには語れない。シャハトはさまざまなあの手この手の経済政策上の新機軸を打ち出し、ドイツ経済を見る見るうちに立て直した。 その中心的な考え方は、資本主義と社会主義および伝統主義などを臨機応変にいいとこどりをしていくものである。 アウトバーンの建設など莫大な公共投資をするととも、投資した資金の回収システムもちゃんと作ってあったし、対外的には、自由・公平な貿易論者であり、1940年には、ドイツのマルクをヨーロッパの共通通貨にしようという「新欧州経済秩序」、今でいうユーロのナチス版を提案したりしている。 この提案は、当時の敵国の著名な経済学者であるケインズによっても、絶賛されたりもしている。 著者の分析によれば、第二次世界大戦にアメリカが参戦した主な理由の一つは、ナチスが、この「新欧州経済秩序」なるものを提起したことにあるということだ。 なぜならば、この「新欧州経済秩序」は、金本位制を離れた金融制度、いまの管理通貨示度のようなシステムであり、この秩序がグローバルスタンダードになり、どこの国も金本位制に従わなくなると、アメリカにたまった「金(きん)」の行き場がなくなり、アメリカの一人勝ち的な繁栄の根拠が足元から崩れてしまう、という理由からである。
さて、ここで重要なことは、上記のような経済政策の成功が、ユダヤ人の迫害や軍備拡張の果実などでは必ずしもなく、純粋に経済施策運営の巧みさによるものであるということである。 ユダヤ人問題は、経済的問題にそれほど大きな影響を与えているわけではなく、別の観点からとらえるべき問題であるし、軍事費についてもナチス・ドイツの国民総生産に占める軍事支出の割合は、1942年まではイギリスのそれよりも低いのである。 また、無謀な侵攻についても、ベルサイユ条約を基軸とする当時の国際環境・情勢を鑑みれば、「生活圏を守るためには第一次世界大戦以前に持っていた領土・植民地の回復」というドイツ一般国民の大多数が抱いている大命題が背景にあり、なにもナチスのみの責任ではないであろうし、ましてや、戦勝国の強権で莫大な賠償金を押し付けておいて、ドイツの実態をほとんど考慮しなかったイギリスやフランスにも責任の一端はあるとみてしかるべきだと思われるが、いかがなものだろうか。 アメリカのみは、賠償金についてはかなり柔軟であったようであるが、上記のように「新欧州経済秩序」でこれまた、自国の利益のみに固執し参戦へと
突き進んだ解釈することもできそうである。
いずれにしても、この本は、ある意味でナチス・ドイツに対する先入観を払しょくさせてくれるような気がする。 一読を勧めるしだいである。

’09.9.23
   Yukikaze

読書のしおり ー その3 「 大帆船時代(快速帆船クリッパー物語) 」



『 大帆船時代(快速帆船クリッパー物語) 』 
杉浦昭典著 中公新書No542

快速帆船クリッパーとは、紀元前後からガレー、カラベル、キャラック、ガリオン、スループ、スクーナー、ブルガンチーン、バーカンチーンなどと種々複雑に進化、発展してきた帆船の、実用帆船としては最後の(そして最良の)形式だとされている。 1820年頃アメリカで登場し、やがてイギリスなどにも広まった。 細長い船体、優美に尖った船首と船尾、三本または四本マストに数多くの帆を装備することによる外観のバランスのよさおよび高速性能にその特徴がある。
本書は、クリッパーの誕生から、アヘン戦争を経て、ティークリッパーレースやウールクリッパーの活躍、有名な「 カテイ・サーク 」についての物語などの章から構成されている。 興味深い実話が随所に挿入されており、帆船のことをまったく知らない人でも、面白く読めるものと思う。
ゴールドラッシュ時の金鉱探しの人々を運んだ、カルフォルニア・クリッパー、中でも、当時速い船でも143日かかっていたニューヨークからサンフランシスコ間を89日間という素晴らしい記録を作ったフライング・クラウド号の話や、ケープ・ホーナーとも呼ばれ、この時代、ホーン岬を何度通過したかと言うことが、帆船乗りの腕前をはかる尺度になっていた、というような話は雑学として知っていても悪くはない。なお、このフライング・クラウド号は時速18.5ノット(34.3Km/h)という素晴らしい記録も出したそうである。
1850年ごろから1872年にかけて、中国の新茶をロンドンまでいかに速く運ぶかが競われたのが、テイー・クリッパー・レースである。 1856年には、ロンドンの茶商人が、新茶を最初にロンドンに運び込んだテイー・クリッパーに、トンあたり1ポンドの賞金を支払うことを発表し、レースに拍車がかかった。 新茶を満載して、5月の末ごろに中国の福州を出発して、南シナ海、スンダ海峡、インド洋、喜望峰、大西洋を90日~100日をかけてひたすら航海し、ロンドンに運ぶのであるが、その乗組員には、単なる船員としてよりもレーサーとしての意識が深く根付いてそうである。 このテイー・クリッパー・レースにおいてもいまだに語り草になっている数多くのドラマが生み出されたが、1869年にスエズ運河が開通し、ヨーロッパから東洋への汽船による航路が短縮されると、新茶輸送も帆船の独占ではすまなくなり、1872年を最後に、テイー・クリッパー・レースといえるほどのものはまったく見られなくなってしまったのである。
イギリス人の心に深く根ざしている誇り高いクリッパーの船名を一つ上げるとすれば、ティー・クリッパーレースやウール・クリッパーレースレースにおいてすばらしい成績を残した1869年に進水したカティ・サーク号をおいては他にはないだろう。 本書には、上記の一代目から、6代目までの各船長の記録が物語風に記されており、読んでいて非常に面白い。
ウール・クリッパーとは、その年に刈り取った羊毛を年末にオーストラリアのニューカスルやメルボルンあるいはシドニーで積み込んで、南太平洋、ホーン岬、大西洋を経て翌年の4月ごろにロンドンで行われる羊毛の売り出し時期までに輸送するクリッパーのことで、たいていは、6月ごろロンドンを出発して、大西洋、インド洋を経て、9月ごろにオーストラリアの港に入港するのが通例であった。 ただし、ロンドンにおける羊毛の売り出しの時期は年によって大幅に違っており。1886年は1月の売り出しだったので、各クリッパーは85年の10月にオーストラリアを後にした。 カティ・サークは1883年から84年にかけてのレースで、82日間というそれまでの常識を破る速力でロンドンに帰り、人々をあっと言わせたそうである。 1884年から85年にかけてのレースでは80日という記録を出し、他のクリッパーをまったく寄せ付けなかった。 1885年から86年に掛けてのレースでは、カティ・サークは宿敵サーモピリーと競争をして、カティ・サーク73日、サーモピリー80日と、カティ・サークは初めて同船に勝つことが出来たそうである。 その後も種々のドラマを残したカティ・サーク号であったが、84日をかけて3月26日にロンドンに入港した94年から95年のレースがカティ・サークのウール・クリッパーとしての最後の航海だった。 その後、カティ・サークはあちこちの国や船主の間を渡り歩いたのち、たくさんの人々の協力によって1954年テムズ川に面するグリニッジで、ほとんど処女航海当時そのままの姿に復元、保存展示され、多くの見学者を集めていたが、野外展示であることから痛みもあり、一時一般公開を中止し、2006年11月より2008年にかけて、大規模な修理と整備をおこなうこととし、あわせて、船の内外装を、もっとも魅力的だったとされる1869年建造当時の状態に復元すべく、その作業が開始された。 ところが、2007年5月21日、カティーサークの船体より火災が発生し、鋳鉄製のフレームを残して多くを焼失してしまい、現在はその雄姿を見ることはできず、まことに残念である。 早い時期の復元を期待するばかりである。

’09.9.23
   Yukikaze

2009/09/21

読書のしおり - その2 「 プラトン入門 」

『 プラトン入門 』
竹田青嗣著 ちくま新書No190

ヨーロッパの現代思想では、思考の「普遍性」という概念は、それによって世界の一切の現象を整合的に説明し尽くしうる絶対的で根本的な観点が存在する、という確信を意味しており、このすべてを普遍的視点から理解できるという発想こそ、ヨーロッパ的理性に特有の、「ヨーロッパ中心主義」的な傲慢で危険な考え方だ、というのであるが、著者は、そうではなく、「普遍性」という概念の本質は、異なった人間どうしが言葉を通して共通の理解や共感を見出しうるその可能性、すなわち、さまざまな共同体を越えて共通了解を作り出そうとする思考の不断の努力という点にあり、プラトンの思考が一貫して示しているのは、言葉、言い換えれば論理をどのような仕方で扱えば、この可能性の原理を捉えうるか、という課題の探求の軌跡であると主張する。
次に、「なぜ存在があり、無があるのではないか」という問いよりも、なぜ人は古来からそういう形而上学的問いを問わざるをえなかったのか、という問いの方が、より本質的な問いである、と著者は、主張する。そういう意味において、「世界とは何であるか」、「いったい人が世界および事物の『原因・根拠』を問うのはなぜか」という問いは、「楽しく」、「よく」、「深く」生きたいという人間の生への欲望それ自体から現れた本質的な問いであり、人間にとって、本来探求に値するのは、物事のありようにおいて、「何が真実か」ではなく、「何が最善か」ということだけだ、というソクラテスの言葉は、哲学の本質を深くついている、と著者は指摘している。
以上のような論点から出発して、著者は、ソクラテス論から始まって、イデア論、エロス、美、恋愛論、政治と哲学の理想論へとプラトンの思想履歴に沿った独自のプラトン解釈および現代哲学批判を展開している。
著者は、『人はさまざまなものに対する欲望を持ち、その欲望の形は千差万別だ。しかし、それにもかかわらず人間の欲望には、つねにより美しいもの、より善いものを求め、ついにその対象を、何かこの上ない「ほんとうのもの」という形で思い描かざるをえないような本来的な性格がある、言い換えれば、「美のイデア」は人間のエロスと欲望の本質にかかわり、「真理」ではなく「ほんとう」という言葉に結びついている』と、主張している。 
そして、著者は、あとがきにおいて『現代の思潮はヨーロッパ出自の資本主義を否認し、国民国家原理による歴史の悲惨の罪障感を打ち消すために「普遍性」という概念を否認する。 しかし、「普遍性」の視点を失うことは、ある感情に押されて思考を反動形式へと投げ入れること、思想をより強靱なものへ鍛える手だてを捨て、羊のロマン主義にゆだねることだ。 それは、結局思想の根拠自体を投げ捨てることである。 この簡明なことが、しかし現在、哲学と思想から見えなくなっている。 我々は、いまもう一度、ギリシャ哲学において、ソクラテス=プラトンが果たした役割を見つめなおし、「普遍性」の概念に基づいた哲学、という方法の原点に立ち戻らなくてはならないが、まさしくその中心にプラトンの哲学がある。』という主張で本書を締めくくっている。
以上のように、著者は、『人は本質として「何が真か」ではなく、何が「より善きもの」であり「より美しいもの」であるかを希求するものである』というのがプラトンの思考のベースであり、『「真」の普遍化の追求』といったヨーロッパ的思考の根源をプラトンに求めるのは全くの筋違いであり、今こそプラトン=ソクラテスの原点に立ち返る必要がある、と主張しており、強く共感させられた。 そういう意味で本書は、プラトンの入門書としてぜひ一読をお勧めしたい。


'09.9.21
   Yukikaze

2009/09/20

読書のしおり ー その1 「 ハックルベリー・フィンのアメリカ 」


ハックルベリー・フィンのアメリカ』 亀井俊介著、 中公新書、 777円

小学生時代に、「トム・ソーヤの冒険」および「ハックルベリー・フィンの冒険」の両方とも読んだ記憶がかすかにあり、中身はほとんど覚えていないがちょっと懐かしくなり買って読んでみた。

両方とも1850年前後のアメリカのミシシッピー川流域を舞台にしたマーク・トウェイン作の小説であるが、「トム・ソーヤの冒険」のほうは、帰還を前提に文明の秩序から2,3日の一時的な「脱走」をして海賊ごっこをし、親たちをあわてさせる、というする子供らしいいたずらがメインテーマであり、一方 「ハックルベリー・フィンの冒険」のほうは、時間的にも空間的にも舞台がかなり広くなって、ミシシッピー川やその沿岸地域でハックルベリー・フィンとその相棒の黒人奴隷のジムがいろいろな人たちに助けられたり、時にはだまされたりしながらも「自由」を求めてあちこちと冒険を繰り広げ、最後には社会の組織に巻き込まれて「Civilize」させられそうになったところで、彼は「インディアン地区へでも逃げ出さなくちゃなるまい」と思うところで作品は終わっており、自然と自由を求めるというアメリカ人の源流的心情が表面に出てはいるが、よく読むと、本心では仲間がいて安心して生きられる社会をも求めているという一見矛盾した心情がメインテーマとなっている。 

この作品の舞台は1850年前後の中部アメリカであるが、マーク・トウェインがこの作品を書いたのは1885年ごろであり、そのころにはいわゆるフロンティアも消滅しかけており、自然のままに自由に生きるという建前としてのアメリカ人の夢は消滅寸前となり、自然の中に秩序ある文明社会を建設するという、本音の部分が中心的な命題としてクローズアップされてきた時期でもある。 著者は、このアメリカ人としての本音と建前を浮浪児上がり 一一 元をただせばアメリカ人というのはヨーロッパの秩序からはみ出した浮浪者みたいなものではないか 一一 のハックが自由奔放な行動で体現して見せているからこそ、「アメリカ人の原型」とみなされるようになったのであり、それは現在でもアメリカ人の深層心理に反映されると共に、この二つの価値観の間で大きな振幅をもって揺れているのではないか、そういう意味で、ハックは「自然」と「文明」の間で揺れ続けるアメリカ社会の根源的かつ矛盾した欲求の原型でもある、と指摘しており、現在のアメリカというものを考える際の大きな指針にもなるのではないかと思う。


’09.9.20
   Yukikaze