2012/06/01

日々の風景 -さきたま古墳群(2012.6.1)

 すでに旧聞に属するが、今年3月15日に「さきたま古墳群」というところに行ってきた。前々から一度行ってみたいと思っていた場所だ。JR高崎線・行田駅下車、駅前の観光案内所でパンフレットをもらい、歩いて「さきたま古墳群」があるさきたま古墳公園に向かった。さきたま古墳群までは結構遠かった(たぶん4~5Kmぐらい)が、途中に石田光成の水攻めに耐えたことで有名な忍城および水城(すいじょう)公園があった。時間がなかったので水城公園はほとんど見なかったが、かなり大きな池などがあり広々とした公園のようである。水城公園から1Kmぐらい歩くとさきたま古墳公園が見えてきた。なお、実際に歩いて行くには、行田駅からよりも1つ大宮よりの「北鴻巣駅」からのほうが近いようだ。この古墳群を「世界遺産」に登録しようとする運動があるみたいで、そのことを訴える大きな看板が立っている。さて、「さきたま古墳群」には、500m×800mという狭い範囲に、かっては40基を越える古墳が堀を接して密集していたそうで、現在でも前方後円墳が8基、円墳が1基の大型古墳が残っている。築造年代は、5世紀後半から7世紀初めごろまでで、その150年間に次々と作られたことが分かっているということだ。愛宕山古墳、二子山古墳、将軍山古墳、稲荷山古墳、丸墓山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳などを見て回ったが、私は前方後円墳を見たのは初めてで、1500年も前にこんなに大きな古墳を築造したのかと思うと、少々感動を覚えた。当然重機はないので、すべて人力でやるしかなかったわけで、相当な意思・覚悟と組織力がなければ出来そうもない。当時、このあたりにそのような強力な組織力と権威を持った地方豪族がいたということだろう。また、ここの稲荷山古墳からは国宝に指定されている、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土している。その鉄剣は雄略天皇に護衛隊長として仕えた、乎獲居(おわけ)という人物が西暦471年に作らせた、ということがその銘文から明らかになっており、年代がきちっと判明している資料としては日本最古のものだということである。二子山古墳は、武蔵の国では一番大きな古墳だそうだ。また、丸墓山古墳は積まれている土の量は二子山古墳より多く、また円墳としては日本一大きいそうだ。一方、愛宕山古墳はほかの前方後円墳に比べてかなり小さいにもかかわらずその表面にはたくさんの木が生えていて見ていて可哀そうで痛々しかった。これらの古墳群は、30年ほど前まではほとんど手入れされることなくいわば放置の状態だったようであるが、その後その重要性が認識され整備が始まり、今も整備はまだ継続中のようであった。また、公園内には、埼玉県の県名由来の説明板が設置されている。「埼玉」の名は、武蔵国多摩郡の奥にある土地の意味で「さきたま(前多摩・先多摩)」が転じた、「さき(前)」「たま(湿地の意味)」の意味から転じた、その他「さきたま(幸魂)」が転じた、などの説があるが、いずれにしてもこの行田付近がその地名の発祥地であることに変わりはないようである。

水城公園の案内図
水城公園

さきたま古墳群の
「めざせ世界遺産」の看板
さきたま古墳群の案内板

愛宕山古墳の案内板
愛宕山古墳

二子山古墳の案内板
二子山古墳

二子山古墳
将軍山古墳の案内板

将軍山古墳
将軍山古墳の埴輪

将軍山古墳の被葬者
稲荷山古墳の案内板

稲荷山古墳
金錯銘鉄剣の解説

丸墓山古墳の案内板
丸墓山古墳

瓦塚古墳の案内板
瓦塚古墳

鉄砲山古墳の案内板
鉄砲山古墳

中の山古墳の案内板
中の山古墳

埼玉県の県名由来の説明板
ガイドブック
さきたま古墳群


3月15日は春とはいえ、まだ肌寒く風が冷たい日であったが、感動を覚えながら見て回ったことを覚えている。

2012.6.1
   Yukikaze

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