2013/08/09

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.8.9)

 
お詫び  お詫び  お詫び  お詫び  お詫び  お詫び

 このブログまでは、グーグルの「Blogger」というブログを利用していましたが、7月22日ごろに突然私のいつも使っているデスクトップのパソコンからは投稿や編集が出来なくなってしまいました。パソコンによっては投稿や編集ができるものもあるようですが、わたしがいつも使っているパソコンからはどうやってもできません。色々と手を尽くしながらしばらく様子を見ていたのですが、回復の見通しがつかないので「Blogger」に見切りをつけて「FC2」というブログに「引っ越し」をしました。今後は、このFC2ブログに色々と書いていきたいと思いますので、よろしくお願いします。 新ブログのURLは「 http://catsanddogswadayuki.blog.fc2.com/ 」 で、ブログの名称は「つれづれさいたま」で以前と同じです。
そういうことで、Yukikaze の「つれづれさいたま」をBlogger で書くのは今回が最後になります。
(今日のこのブログのみは、投稿・編集が可能な別のパソコンから投稿していますが・・・)



7月19日(金曜日)に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第32回目の短歌教室があった。


(1) 寒明けのモクレンの花孤高にて気位(きぐらい)もちて天に散りそむ
 ・寒明けとは、立春過ぎのことであって、2月4日、5日以降は寒明けになる。モクレンは大体3月に入ってから咲くものであるから、寒明けと言うのは季節的に合わない。
 ・ただ「モクレン」といった場合は朱モクレンのことを指す。白のモクレンなら白モクレンと言うべきである。
 ・「孤高」という言葉は、ひまわりのように一つだけ咲いているというイメージである。モクレンはたくさんの花が一斉に咲いているので、「孤高」のイメージはないのではないか。
 ・「天に散りそむ」というのは、桜の花などが天空に舞い散っているイメージであり、モクレンには合わない。モクレンの花はボタッと地に落ちて来る。

ということで、この歌に対しては添削出来ない、ということであった。



(2) 花すぎて鎮守の杜の大クスは静もりてあり梅雨近からむ
 ・「花すぎて」という表現は、桜の花の季節が過ぎて、という意味にとられかねない。

 → → → 鎮守の杜の大クスは花散りてしづもりてあり梅雨近き日を

 → → → 鎮守の杜の大きクスの木花の季節終わりてシンと青葉しづもる




(3) 木漏れ日にイワナ耀(かがよ)い奥秩父入川渓(いりかわたに)に夏は来にけり
 ・奥秩父に夏がやってきた、ということよりも、渓流にイワナが泳いでいるのをみた、ということに重点を置いたほうがよい

 → → → イワナらしき魚影光りて奥秩父の入川谷に夏は来にけり
 
 → → → 木漏れ日の揺るる川瀬をのぞき見ればイワナかいくつかの魚影きらめく


7月19日の短歌はかなりの自信作であったが、色々と指摘されてしまった。


8月9日
 
 Yukikaze




2013/07/24

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.7.24)

7月19日の短歌教室用として下記の3首を提出した。
 
 今回は、自然の移り変わりを木々に託して読んでみた。

(1) 寒明けのモクレンの花孤高にて気位(きぐらい)もちて天に散りそむ

 木蓮は3月初めごろに大きな花を天上につける。朱モクレンと白モクレンがあるが朱モクレンのほうが一般的なようである。一本の木にたくさんの花をつけるが、私だけの感じかもしれないが、一つひとつの花を見ると孤高で気位が高いように見える。1~2週間咲いた後に、はらはらと天上に花びらを散らしていく。
白モクレンの木
白モクレンの花












(2) 花すぎて鎮守の杜の大クスは静もりてあり梅雨近からむ

 楠の花は5月から6月ごろに小さな目立たない花をたくさん咲かせる。虫媒花なので、花期にはたくさんの昆虫が寄ってきてなんとなく騒々しい感じがするが、その花期をすぎると静かな感じに戻る。そうすると梅雨も間近である。
鎮守の杜とクスの木


クスの花












(3) 木漏れ日にイワナ耀(かがよ)い奥秩父入川渓(いりかわたに)に夏は来にけり

 私が住んでいる埼玉南部の平野部から見ると奥秩父はよっぽどの山奥の感じがして夏が来るのもかなり遅れるのではないかと思ってこの様に詠んでみた。

渓谷の木漏れ日

イワナ












2013.7.24
  Yukikaze 


2013/07/05

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.7.5)

 今日、7月5日(金曜日)に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第31回目の短歌教室があった。

(1) 南溟に水漬きて還らぬ兵の墓田のあぜにあり母建てしとぞ
 ・「南溟」とか「水漬きて」なんかの言葉は、古めかしくて現代短歌ではあまり使わない。南方に出いいのではないか。
 ・「南溟に水漬きて還らぬ兵の墓」というところがなんとなく俳句の口調になっており、もう少し工夫が必要。
 ・この歌のバックを考えて、「南方」、「一人息子なのか」、「女手一つで育てたのか」などなどについて言うなら、別の歌にすべき

 → → → 残されし母が建てにし兵の墓田のあぜ道のほとりに古りぬ


(2) 亡き妻の血を引くゆえかわが娘笑える時に鼻にしわよる
 ・「笑える」が問題  「笑える」といった場合、二つの意味に取れる。
  〈ⅰ〉 笑っている時
  〈ⅱ〉 笑う事が出来る時
 したがって今の場合は、「笑う時」とした方がよい。

 → → → 亡き妻の血を引く娘笑う時あわれ母に似て鼻にしわよる


(3) 卒寿過ぐ母と今年も庭の枇杷採りしがこれからいくたびかとる
 
 ・「卒寿過ぐ」は「卒寿過ぎし」が正しい。
 ・「これからいくたびかとる」は言いたいことは分かるが、これを言うと煩雑、複雑になってしまう。これは、言わないで鑑賞者の想像に任せる。

 → → → 卒寿過ぎても相変わらず元気なる母と今年も共に庭の琵琶とる



2013.7.5
  Yukikaze


2013/07/03

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.7.3)

7月5日の短歌教室用として下記の3首を提出した。


(1) 南溟に水漬きて還らぬ兵の墓田のあぜにあり母建てしとぞ

    実家の近くに実際にそのようなお墓があった。お母さんの嘆きはいかばかりであったろうか。
           

彼岸花とお墓


(2) 亡き妻の血を引くゆえかわが娘笑える時に鼻にしわよる
  
  私の娘は亡き妻の実の娘でもあるから、性格や体の特徴に似たところがあって当然であるが、実際にそれを目のあたりにすると何とも言えない感慨がある。
 


(3) 卒寿過ぐ母と今年も庭の枇杷採りしがこれからいくたびかとる

  6月になると、92歳の母親と毎年庭の枇杷の実を採っている。実家のあたりでは、家ごとに枇杷の木があってこの時期どの家にも枇杷の実が鈴なりになっている。しかし、よく見るとどこの枇杷の実も親指ほどの大きさしかなく種が大きな枇杷のことであるから、たぶん食べられたものではないのではないか。それに比べて、実家の枇杷の実は十分に大きく、人にあげても喜んで食べてもらえる、と母はいつも自慢している。この枇杷採りもいつまで続けられるのだろうか。

琵琶の実

2013.7.3
   Yukikaze


   

2013/06/21

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.6.21)

今日、6月21日(金曜日)に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第30回目の短歌教室があった。

(1) 「アザミの歌」大好きだった義弟(おとうと)が世を去りて早や十年が過ぐ

 ・ 実際は義弟であっても、短歌の場合は義弟と書いて「おとうと」とルビを振るまでもないだろう。フィクションでもかまわない。姑や義母であっても、母と書いた方がより身近に感じることもある。
 ・ 義弟が何で死んだのか、何歳だったのか、なぜ「アザミの歌」が好きだったのか、などなど関連した歌が10首ぐらいはすぐにできるはず。そういうのに挑戦してほしい。

 → → → 「アザミの歌」大好きだった弟が世を去りて早やくも十年が過ぐ


(2) 「錆びたナイフ」ふと聞こえ来てなつかしく、そにじんときた若き日のあり
 
 ・ 「そにじんときた」の「そに」はそぐわない。歌の歌詞通りに「胸にじんときた」の方がよい。
 ・ 「若き日のあり」では説明的だ。もう少し、余韻を持たせるべき。
 ・ 下記の添削例で、「流れきぬ」を「流れ来て」とすると説明的になってしまいよろしくない。

 → → → 「錆びたナイフ」の曲流れきぬ、胸にじんときた若き日のふいになつかし

 
(3) 「錆びたナイフ」の「俺もここまで泣きにきた」にはいくたびも慰められし

 ・ 歌全体が散文的になっている。
 ・ 前の歌とともに「錆びたナイフ」がトップに来ている。歌の並べ方、構成をよく考えること。
 ・ 前に「錆びたナイフ」と出てくるのでここでは「錆びたナイフ」は言う必要はなく、「流行歌」とか「はやり歌」でいいのではないか。

 → → → 「俺もここまで泣きに来た」という『錆びたナイフ』の文句に慰められし若き日
 → → → 「俺もここまで泣きに来た」という流行歌の文句に慰められし若き日


今日も結構直されたが、それなりに先生のいうことも理解できる。今後の参考にしてゆきたい。


私の歌ではないが、I さんの歌

     「 やむを得ず河川敷に住む人もゐてブルーシート覆ふ小屋なくならず 」

 ・ やむを得ず住んでいる人ばかりではないかもしれない。好き好んでそういう所に住んでいる人もいるかもしれないし、そういう話もよく聞く
 ・ 河川敷のブルーシートの小屋から出てきた人を偶然見たら、ソクラテスそっくりだった、などというような内容にした方が短歌らしくなる
 
 → → → どのような境遇なるか河川敷のブルーシートの小屋に住む人
 → → → 哲学者もあるいはおらむ河川敷のブルーシートの小屋に住む人



2013.6.21
   Yukikaze


2013/06/19

短歌・俳句の風景 -その125(2013.6.19)

「短歌・俳句の風景」は、しばらくお休みしていましたが、久しぶりに書いてみました。今回は、土屋文明の有名な歌です。


『 終りなき時に入らむに束の間の後前(あとさき)ありや有りてかなしむ 』  土屋文明

 文明の妻は、昭和57年4月に一晩病んだだけで、まことに思いがけず、あっけなく逝ってしまったそうです。この歌は、それから半年ほどたった時に詠まれたそうですが、ようやくその死を静かに受け入れられるようになったのかも知れません。現実主義の文明だったそうですが、この妻を悲しむ歌は万人の愛誦に堪える一首かと思います。
 永遠の中にあっては、人間の命などはまことに短くほんの瞬間のものである。したがって、生を終える死に前後はあっても、それは永劫の中にあっては、ほんの一瞬の違いでしかなく、ないも同然と言える。そのように理性では考えても、実際にはこのように自分一人残って先立たれた悲しみは言いようがない。
 私も、この3年の間に、父、次男、家内を亡くし、まったく同じ感慨を持っており、この歌を読むたびに茫々たる思いがします。

サシバの渡り



2013.6.19
   Yukikaze

2013/06/18

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.6.18)

6月21日の短歌教室用として下記の3首を提出した。

1.「アザミの歌」大好きだった義弟(おとうと)が世を去りて早や十年が過ぐ

 私の義弟(妻の妹の旦那さん)は、10年前58歳の若さで世を去った。がんだった。彼はことのほか「アザミの歌」が好きで、告別式の式場でも終始この歌がBGMとして流されていたのを思い出す。非常に穏やかで、かつ博識な人で、生きていれば節目節目でいろいろなことを導いてもらえたのではないかと残念でならない。



長野県の八島ヶ原湿原にある歌碑
夏の八島ヶ原湿原
作詞者の横井弘がここで想を得た由













2.「錆びたナイフ」ふと聞こえ来てなつかしく、そにじんときた若き日のあり

 
3.「錆びたナイフ」の「俺もここまで泣きにきた」にはいくたびも慰められし

 石原裕次郎主演の映画「錆びたナイフ」は見たことはないが、彼が歌ったこの歌は、何度聞いても本当に胸に「じん」と来るようないい歌である。






















2013.6.18
   Yukikaze

 
 
 

2013/06/07

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.6.7)

今日、6月7日(金曜日)に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第29回目の短歌教室があった。

(1) 小一も悩みあるらし遥ちゃんは朝の機嫌が日ごとに変わる

 この歌は、最初は「小一の遥ちゃんも悩みあるらしく朝の機嫌が日ごとに変わる」で提出していたものを掲出のように訂正をしたものである。先生曰く、訂正したことによって、「格段に」悪くなった、と。提出のものだと、小学一年生はすべて悩みがあることになる。多分そうかもしれないが、歌の趣旨としては、「小一の遥ちゃん」に焦点を当てて詠んでいるのであるから、「小一の遥ちゃん」とすべきである。また、後半部分は、内容が「一般化」されてしまっており、面白くない。「今朝の機嫌」とかに焦点を絞った方が、歌は生きてくる。

  → → → 小一の遥ちゃん何か悩めるか今朝はぐずりて機嫌が悪し

  → → → 小一の遥ちゃん何か悩めるか今朝は学校へ行くを嫌がる


(2) 席替えの日の夕食時小一の遥ちゃん笑顔で「ああよかった」と

 このままでは、「ああよかった」の内容が明確でない。

  → → → 席替えで好きな子と並びし遥ちゃんは「ああよかった」と笑顔でもどりし


(3) 久々に訪いにし保育園に遥ちゃんは油売るらしわれ待たされており

 遥ちゃんは、自分と一緒に保育園に来たことが、一番最後になって分かる。このような構成は好ましくない。また、「油を売る」などという言葉は、既成語であり一般によく使われている言葉であり、短歌の中では出来るだけ使わないようにしたい。

  → → → 保育園に久々に来たる遥ちゃんは我を待たせて油売りおり

  → → → 保育園に久々に来たる遥ちゃんは我を待たせて自慢話しており


Kさんの歌

「 老い母は登校の子を送るごと手をふり門の我を見送る 」

 「ごと」は「がに」の方がよい。「登校の子」では高校生、大学生かもしれない。小学生あるいは幼子などにした方がよい。また、この歌の主題は、母が手をふっていることにあるのであって、門に自分を見送っていることにあるのではない。したがって、「門に手をふる」で締めた方がよい。

  → → → 小学生の子を送るがに老い母が我を見送り門に手をふる

Mさんの歌

「 町内のあじさい祭り近づきてとりどりの色築山染めゆく 」

 「とりどりの色」とは何の色なのか。また、築山はどこにあるのか。

  → → → 公園の築山のあじさい色深め今年もあじさい祭り近づく


今日も随分直されたが、指摘されたことを今後の作歌に反映させていきたい。

なお、全般的な注意として、下記のような指摘があった。
1.歌は出来るだけ「喜び」の感情を詠みたい
2.臨場感を持って詠むこと
3.使い古された既成語はなるべく避けること(例えば、「油を売る」、「釘づけとなる」など)



2013.6.7
   Yukikaze


2013/06/06

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.6.6)

6月7日の短歌教室用として下記の3首を提出した。
 
 
 孫の「遥ちゃん」についての歌3首。いずれも、この春小学一年生になった孫の「遥ちゃん」の最近の言動を詠んでみた。

(1) 小一も悩みあるらし遥ちゃんは朝の機嫌が日ごとに変わる

 朝、登校時の機嫌は毎日微妙に違う。学校の、あるいは登校時の何かにいやなことあるいは楽しいことを連想・想起しているのかもしれない。パパとママは、彼女の朝の機嫌のよしあしに一喜一憂している。


(2) 席替えの日の夕食時小一の遥ちゃん笑顔で「ああよかった」と

 夕食時は、その日一日の出来事のママへの報告の場。席替えの日の報告は、にこやかな笑顔で心底うれしそうに「ほんと~う、によかった~」と話していた。見ていて、こちらも「よかったね」と言ってしまった。


(3) 久々に訪いにし保育園に遥ちゃんは油売るらしわれ待たされており

 遥ちゃんがこの3月に卒園した保育園には、弟が通っている。5月にその弟を遥ちゃんと一緒に迎えに行ったことがある。その時、遥ちゃんは、お世話になった旧知の先生方や用務員の方まで一人一人と長々とおしゃべりをしていて、なかなか帰りそうになく私は長いこと待たされる羽目になってしまった。


いとこのミミー(左)と遥ちゃん(右)
登校初日の遥ちゃん














2013.6.6
   Yukikaze



2013/05/31

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.5.31)

今日、5月31日(金曜日)に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第28回目の短歌教室があった。

(1) 故郷の字名なつかし青無塚(あおむずか)今は味気なし青葉町となる

 有名な、啄木の「故郷のなまり懐かし停車場に・・・」の歌をすぐさま連想させ、あまり良くない。
また、この歌を詠む時には、「なつかし」の後、「青無塚」の後、「味気なし」の後で切れることになり三か所で切れている。これもよくない。

→ → →  故郷のなつかしき字名の青無塚いまは青葉町となりて味気なし


(2) 「天然の美」演奏しつつ練り歩くチンドン屋見き父の肩車に

 「演奏しつつ練り歩く」という表現はまどろっこしい。

→ → →  チンドン屋のジンタを聞けば父の肩車に聞きにし昔よみがえる

→ → →  クラリネットに「天然の美」を奏でつつ春の商店街をチンドン屋が来る


(3) 花すぎて桜の若葉雨ごとに力満つるを羨しみて見る

 精神的になりすぎて、力みすぎている。素直に、若葉が美しいことのみを詠めばいい、のではないか。

→ → →  葉桜の風にそよげる並木道緑のトンネルを行けばすずしき


私の歌ではないが、I さんの歌

   「 お年寄りの亡くなりし後の家屋敷はや整地され井戸のみ残る 」

 歌意は多分「一人暮らしの老人」が亡くなった、ということであろうから、「お年寄り」だけだと表現が不十分。「独居老人」とすべき。また、「亡くなりし」は尊敬の表現でもあり、ここでは不適。「逝きにし」とすべき。次に、家屋敷は表現が硬すぎる。「古き屋敷」あるいは「大き屋敷」、ここでは、「大き屋敷」の方が実感が出てよい。「はや整地され」よりも「更地となりて」の方がよい。

→ → →  独居老人逝きにし後の大き屋敷更地となりて井戸のみ残る

今日もいろいろいいわれ徹底的に直されたが、いい勉強になった。



2013.5.31
   Yukikaze

 

2013/05/29

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.5.29)

5月31日の短歌教室用として下記の3首を提出した。
 
 今回はテーマはばらばらになってしまった。

(1) 故郷の字名なつかし青無塚(あおむずか)今は味気なし青葉町となる

 4月21日と22日、20数年ぶりに19歳までを過ごした大牟田を訪れた。私が住んでいた場所は「青無塚(あおむずか)」と呼ばれていたが、今は「青葉町」となっている。「青葉」という名称は全国各地に無数にありそうだが、「青無塚(あおむずか)」という地名はそうそうあるものではない、と思う。

現在の青葉町(1)
遠くに見えるのは三池山
現在の青葉町(2)
遠くに見えるのは小岱山(しょうたいざん)

 










(2) 「天然の美」演奏しつつ練り歩くチンドン屋見き父の肩車に

 今もあるらしいが、私が小さい頃は「チンドン屋」が町の繁華街を、大抵クラリネット、鐘、太鼓で例の哀愁のある「天然の美(美しき天然、ともいう)」を奏でながら練り歩いていたものだった。


チンドン屋
天然の美(美しき天然)











田中穂積が天然の美を作曲する
動機となった佐世保の九十九島
作曲者「田中穂積」の顕彰碑










(3) 花すぎて桜の若葉雨ごとに力満つるを羨しみて見る

 桜は、花が散ると若葉がぐんぐんと出てきて見る間に緑一色になる。この、日に日に若葉が茂っていく様子は見ていてもとてもすがすがしくて気持ちがいいものだ。この若葉が力を増していくありさまは、一面うらやましい気もする。



遅咲きの桜と若葉

日立平和通の桜の若葉










2013.5.29
   Yukikaze



2013/05/27

切手蒐集の楽しみ

 先に、5月24日に日立市で元の職場のOB会があって、そのあくる日の25日には日立市の思い出の場所を数か所レンタカーで回ってきたことを書いた。レンタカーは日立駅前で借りて、水戸で乗り捨てにする契約だったので、日立市から水戸に行く途中で東海村に寄って切手の蒐友のKさんに会った。東海駅の東口で待ち合わせをして近くの喫茶店で約1.5時間ほど歓談をした。

 私が日立に就職してしばらくしてから日立に「日立郵趣会」というのがあるのを知り、私も切手を集めていたので、さっそく入会させてもらったが、Kさんはその「日立郵趣会」の幹事をやっており、彼とはその時以来の付き合いである。蒐集以外のことも含めていろいろと話をしたが、その中で面白かったのは、彼が見せてくれた「郵便による自分史」である。

 これは、切手そのものではなく、おもに消印がテーマであるが、例えば自分が生まれた日付けの消印が押してある手紙そのもの(エンタイアともいう)を探す。と言っても自分宛て、家族あてのものは普通はないので、他人が他人に出したその日の消印がある手紙を切手商から購入することになる。しかし、その日は、自分だけの記念日であり、普通は大した金額にはならず、せいぜい50円、100円のオーダーである。しかし、これが公の記念日で古いものだと結構値が張って来るものもあるそうだ。いずれにしても、どういう日付のものを集めるのか、自分なりに集める方針・テーマみたいなものを決めてからスタートする方がいい、と彼は言っている。自分の歴史だけでは、どうしても日付までを特定するのが難しい(例えば、高校の入学式、卒業式の日付を特定するのは、小さい時から日記でもつけておかない限り困難なことが多いだろう)ので、世の中の出来事で自分が関心がある、あるいは何らかの関係があるものが中心となるのはやむを得ないのかもしれない。彼は、非常にもの持ちがよく、切手とは直接関係はないが、小学校時代の通信簿から高校の受験票なども保管しているようで、それらも含めてきれいにA4のファイル120枚に整理をしている。見せてもらって、感嘆ひとしきりであった。

 最後に、彼から貴重なエンタイアを一ついただいた。太平洋戦争が始まった日、すなわち昭和16年12月8日の日付の消印がある手紙である。しかも、貼ってある切手は水力発電所を描いたものであり、Kさん曰く、「Yukikazeさんにとってはまさに渡りに船でしょう」、と。私が、水車の設計者であったからである。ちなみに、このエンタイアは切手商から買えば8000円ぐらいはするとのことであるが、探してもなかなか見つからないのでは、と。ということで、私も、自分の誕生日や父母や妹あるいは亡くなったが家内の誕生日のエンタイア探しから挑戦してみたいと思った次第である。


Kさんからもらったエンタイア
切手、消印部分の拡大
昭和16年12月8日というのがはっきり分かる

以上、OB会の帰りの最後に非常に楽しい思いをさせていただいたKさんに感謝します。



2013.5.27
   Yukikaze



日立市再訪の記

 私は昭和45年(1970年)に九州の大学を卒業して日立製作所に入社、茨城県の日立工場に配属され、東京の関連会社に転属になるまで日立市で25年あまりを過ごした。日立工場では、水力発電所で使用される発電用水車の設計を17年、その後宇宙関連の仕事を8年程やった。5月24日(金)の午後、日立市でその水車の設計を一緒にやったOBの集まりがあった。このOB会は二年に一回実施されているが、前回、前々回とも家内の病気のため欠席をしており、久しぶりの出席であった。今回は61名の参加者があり盛況であった。ほんとに久しぶりに、人によっては何十年ぶりに再会した人もいて、想い出話しや近況報告に話の花が咲き懐かしいひと時をすごすことができた。

記念撮影(3枚のうちの1枚)
OB会の会場および宿泊の
ホテル天地閣










日立工場と特急「スーパーひたち」
(ホテル天地閣より)
太平洋と日立バイパス
(ホテル天地閣より)













 その日は、会場となったホテル天地閣に宿泊。あくる日(5月25日(土))は、ホテル天地閣から歩いて7分~8分のJR日立駅に行ってみたが、大変な変わりようで驚いた。いわゆる「橋上駅」なのだが、外から見ても連絡通路がガラス張りのモダンな造りになっている。連絡通路の張り出しの先には太平洋が一望できるロビーと喫茶室が設けられている。駅前の大通り(平和通り)はと当時から桜並木があったが、桜の若葉が美しい。43年前に初めて日立駅に降り立った時は、この平和通りは桜並木の桜もさほど大きくはなく、道路はまだ舗装もされておらず土埃が舞い上がるでこぼこ道であった。日立に来た第一印象は、正直ウエスタンに出てくる「西部の町」に降り立ったような感じであった。また、駅前にはイトーヨーカドーが出来ており市内一の繁華街のはずであるがなぜか閑散としている。

新日立駅全景
日立駅前










駅ロビー
ロビーからの眺め
日立バイパスが眼下に見える











橋上駅連絡通路(動く歩道もある)
連絡通路の張り出し部分(ロビーと喫茶室)










日立駅前通り(平和通り)
駅前のイトーヨーカドー横の通り










 そのあと、25年を過ごした日立市をレンタカーで回ってみた。入社時に3年余りを過ごした「知新寮」は外観はもとのままで健在、新婚時に6年ほどお世話になった成沢(なるさわ)アパートは私が住んでいた棟はなくなって更地になっていたが、隣の棟は今でも何世帯かの人が住んでいるようだ。


今の「知新寮」
私住んでいたのアパートの跡地










私のアパートの隣の棟
(まったく同じ作り)
 

 次に行ったのは、日立市を離れる前の11年間住んでいた日立工場の社宅・会瀬(おおせ)社宅。会社の自席まで歩いて10分程度の便利な場所にあった。当時はたくさんの社宅が軒を並べていたが、今は社宅の建屋そのものは全くなくなって、面積の3/4は新しい家が立ち並んでおり、私たち家族が住んでいた建物あとの周り一帯だけがまだ更地のままで草が生い茂っていた。私が少年時代を過ごした大牟田もそうであったが、ここも住んでいたころの名残は全くなくなっていた。
11年間住んでいた社宅の跡地(1)
11年間住んでいた社宅の跡地(2)











社宅ありし日の風景

 そのあと、神峰(かみね)公園に行ってみた。ここは、市の北部にあり、ちょっと小高い丘になっている。公園内には、遊園地や動物園などのレジャー施設もあり、頂上には二階建ての展望台もある。展望台からは日立市の中心部が一望できる。ここの公園には、子供たちを連れてよく遊びに来たものだ。また、公園内には、私がいたころにはなかったが、地元出身の作曲家・吉田正の記念館が出来ていた。


かみね公園の案内図
展望台から日立市中心部を望む












友好都市のアメリカのバーミングハム市
から送られた「バルカン像」
展望台














吉田正音楽記念館
吉田正の胸像とマネキン











 次は、私が住んでいた当時日立市の一番の繁華街であった「日立銀座通り」に行ってみた。ここも、大牟田の銀座通り程ではないにしても相当の寂れようだ。土曜日だと言うのにほとんど人通りがない。











 その次はJR常陸多賀駅に行ってみた。ここは、以前とあまり変わっていない。常陸多賀駅前通りは以前から、電信柱がなく非常にすっきりしたあか抜けした通りであり、私の好きな場所でもあったが今回来てみても印象は同じであった。



常陸多賀駅前
常陸多賀駅前通り










 そのあと、日立市の南部にある「みかの原団地」に行ってみた。ここには、私が成沢アパートを出て会瀬社宅に移るまでの5年ほど住んだ家が残っている。しかし、私が出た後に入った人もいずれかに転居してしまい、家そのものは荒れ放題になっていた。さびしい限りである。

かって住んだみかの原団地の家


 以上、水車のOB会に出席したついでに、思い出の場所をレンタカーで駆け足で回ってきた。日立も人口が減少に転じているようで最盛期には21万人ぐらいだったと記憶しているが、今は19万人を切っているそうだ。日立の銀座通りや駅前のイトーヨーカドーを見ても、元気がない。大牟田は、炭鉱が閉山してしまったので人口も約半分になってしまったが、日立の場合は、日立工場(今は、日立事業所というみたいだが)がなくならない限り大丈夫だとは思うが、これも日立製作所の思惑でどうなるか分からない。現に、私が奉職をした水車の部門は一昨年、三菱の水車部門と合体し、日立製作所から独立した「HMハイドロ」という別会社になっているし、火力部門も三菱との合体で別会社になっている。まさに、「一寸先は闇」であるが、日立の重電部門が勢いを盛り返し、日立市に昔の活気がよみがえることを願い祈るばかりである。


2013.5.27
   Yukikaze