2013/05/31

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.5.31)

今日、5月31日(金曜日)に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第28回目の短歌教室があった。

(1) 故郷の字名なつかし青無塚(あおむずか)今は味気なし青葉町となる

 有名な、啄木の「故郷のなまり懐かし停車場に・・・」の歌をすぐさま連想させ、あまり良くない。
また、この歌を詠む時には、「なつかし」の後、「青無塚」の後、「味気なし」の後で切れることになり三か所で切れている。これもよくない。

→ → →  故郷のなつかしき字名の青無塚いまは青葉町となりて味気なし


(2) 「天然の美」演奏しつつ練り歩くチンドン屋見き父の肩車に

 「演奏しつつ練り歩く」という表現はまどろっこしい。

→ → →  チンドン屋のジンタを聞けば父の肩車に聞きにし昔よみがえる

→ → →  クラリネットに「天然の美」を奏でつつ春の商店街をチンドン屋が来る


(3) 花すぎて桜の若葉雨ごとに力満つるを羨しみて見る

 精神的になりすぎて、力みすぎている。素直に、若葉が美しいことのみを詠めばいい、のではないか。

→ → →  葉桜の風にそよげる並木道緑のトンネルを行けばすずしき


私の歌ではないが、I さんの歌

   「 お年寄りの亡くなりし後の家屋敷はや整地され井戸のみ残る 」

 歌意は多分「一人暮らしの老人」が亡くなった、ということであろうから、「お年寄り」だけだと表現が不十分。「独居老人」とすべき。また、「亡くなりし」は尊敬の表現でもあり、ここでは不適。「逝きにし」とすべき。次に、家屋敷は表現が硬すぎる。「古き屋敷」あるいは「大き屋敷」、ここでは、「大き屋敷」の方が実感が出てよい。「はや整地され」よりも「更地となりて」の方がよい。

→ → →  独居老人逝きにし後の大き屋敷更地となりて井戸のみ残る

今日もいろいろいいわれ徹底的に直されたが、いい勉強になった。



2013.5.31
   Yukikaze

 

2013/05/29

日々の風景 -短歌教室(提出)(2013.5.29)

5月31日の短歌教室用として下記の3首を提出した。
 
 今回はテーマはばらばらになってしまった。

(1) 故郷の字名なつかし青無塚(あおむずか)今は味気なし青葉町となる

 4月21日と22日、20数年ぶりに19歳までを過ごした大牟田を訪れた。私が住んでいた場所は「青無塚(あおむずか)」と呼ばれていたが、今は「青葉町」となっている。「青葉」という名称は全国各地に無数にありそうだが、「青無塚(あおむずか)」という地名はそうそうあるものではない、と思う。

現在の青葉町(1)
遠くに見えるのは三池山
現在の青葉町(2)
遠くに見えるのは小岱山(しょうたいざん)

 










(2) 「天然の美」演奏しつつ練り歩くチンドン屋見き父の肩車に

 今もあるらしいが、私が小さい頃は「チンドン屋」が町の繁華街を、大抵クラリネット、鐘、太鼓で例の哀愁のある「天然の美(美しき天然、ともいう)」を奏でながら練り歩いていたものだった。


チンドン屋
天然の美(美しき天然)











田中穂積が天然の美を作曲する
動機となった佐世保の九十九島
作曲者「田中穂積」の顕彰碑










(3) 花すぎて桜の若葉雨ごとに力満つるを羨しみて見る

 桜は、花が散ると若葉がぐんぐんと出てきて見る間に緑一色になる。この、日に日に若葉が茂っていく様子は見ていてもとてもすがすがしくて気持ちがいいものだ。この若葉が力を増していくありさまは、一面うらやましい気もする。



遅咲きの桜と若葉

日立平和通の桜の若葉










2013.5.29
   Yukikaze



2013/05/27

切手蒐集の楽しみ

 先に、5月24日に日立市で元の職場のOB会があって、そのあくる日の25日には日立市の思い出の場所を数か所レンタカーで回ってきたことを書いた。レンタカーは日立駅前で借りて、水戸で乗り捨てにする契約だったので、日立市から水戸に行く途中で東海村に寄って切手の蒐友のKさんに会った。東海駅の東口で待ち合わせをして近くの喫茶店で約1.5時間ほど歓談をした。

 私が日立に就職してしばらくしてから日立に「日立郵趣会」というのがあるのを知り、私も切手を集めていたので、さっそく入会させてもらったが、Kさんはその「日立郵趣会」の幹事をやっており、彼とはその時以来の付き合いである。蒐集以外のことも含めていろいろと話をしたが、その中で面白かったのは、彼が見せてくれた「郵便による自分史」である。

 これは、切手そのものではなく、おもに消印がテーマであるが、例えば自分が生まれた日付けの消印が押してある手紙そのもの(エンタイアともいう)を探す。と言っても自分宛て、家族あてのものは普通はないので、他人が他人に出したその日の消印がある手紙を切手商から購入することになる。しかし、その日は、自分だけの記念日であり、普通は大した金額にはならず、せいぜい50円、100円のオーダーである。しかし、これが公の記念日で古いものだと結構値が張って来るものもあるそうだ。いずれにしても、どういう日付のものを集めるのか、自分なりに集める方針・テーマみたいなものを決めてからスタートする方がいい、と彼は言っている。自分の歴史だけでは、どうしても日付までを特定するのが難しい(例えば、高校の入学式、卒業式の日付を特定するのは、小さい時から日記でもつけておかない限り困難なことが多いだろう)ので、世の中の出来事で自分が関心がある、あるいは何らかの関係があるものが中心となるのはやむを得ないのかもしれない。彼は、非常にもの持ちがよく、切手とは直接関係はないが、小学校時代の通信簿から高校の受験票なども保管しているようで、それらも含めてきれいにA4のファイル120枚に整理をしている。見せてもらって、感嘆ひとしきりであった。

 最後に、彼から貴重なエンタイアを一ついただいた。太平洋戦争が始まった日、すなわち昭和16年12月8日の日付の消印がある手紙である。しかも、貼ってある切手は水力発電所を描いたものであり、Kさん曰く、「Yukikazeさんにとってはまさに渡りに船でしょう」、と。私が、水車の設計者であったからである。ちなみに、このエンタイアは切手商から買えば8000円ぐらいはするとのことであるが、探してもなかなか見つからないのでは、と。ということで、私も、自分の誕生日や父母や妹あるいは亡くなったが家内の誕生日のエンタイア探しから挑戦してみたいと思った次第である。


Kさんからもらったエンタイア
切手、消印部分の拡大
昭和16年12月8日というのがはっきり分かる

以上、OB会の帰りの最後に非常に楽しい思いをさせていただいたKさんに感謝します。



2013.5.27
   Yukikaze



日立市再訪の記

 私は昭和45年(1970年)に九州の大学を卒業して日立製作所に入社、茨城県の日立工場に配属され、東京の関連会社に転属になるまで日立市で25年あまりを過ごした。日立工場では、水力発電所で使用される発電用水車の設計を17年、その後宇宙関連の仕事を8年程やった。5月24日(金)の午後、日立市でその水車の設計を一緒にやったOBの集まりがあった。このOB会は二年に一回実施されているが、前回、前々回とも家内の病気のため欠席をしており、久しぶりの出席であった。今回は61名の参加者があり盛況であった。ほんとに久しぶりに、人によっては何十年ぶりに再会した人もいて、想い出話しや近況報告に話の花が咲き懐かしいひと時をすごすことができた。

記念撮影(3枚のうちの1枚)
OB会の会場および宿泊の
ホテル天地閣










日立工場と特急「スーパーひたち」
(ホテル天地閣より)
太平洋と日立バイパス
(ホテル天地閣より)













 その日は、会場となったホテル天地閣に宿泊。あくる日(5月25日(土))は、ホテル天地閣から歩いて7分~8分のJR日立駅に行ってみたが、大変な変わりようで驚いた。いわゆる「橋上駅」なのだが、外から見ても連絡通路がガラス張りのモダンな造りになっている。連絡通路の張り出しの先には太平洋が一望できるロビーと喫茶室が設けられている。駅前の大通り(平和通り)はと当時から桜並木があったが、桜の若葉が美しい。43年前に初めて日立駅に降り立った時は、この平和通りは桜並木の桜もさほど大きくはなく、道路はまだ舗装もされておらず土埃が舞い上がるでこぼこ道であった。日立に来た第一印象は、正直ウエスタンに出てくる「西部の町」に降り立ったような感じであった。また、駅前にはイトーヨーカドーが出来ており市内一の繁華街のはずであるがなぜか閑散としている。

新日立駅全景
日立駅前










駅ロビー
ロビーからの眺め
日立バイパスが眼下に見える











橋上駅連絡通路(動く歩道もある)
連絡通路の張り出し部分(ロビーと喫茶室)










日立駅前通り(平和通り)
駅前のイトーヨーカドー横の通り










 そのあと、25年を過ごした日立市をレンタカーで回ってみた。入社時に3年余りを過ごした「知新寮」は外観はもとのままで健在、新婚時に6年ほどお世話になった成沢(なるさわ)アパートは私が住んでいた棟はなくなって更地になっていたが、隣の棟は今でも何世帯かの人が住んでいるようだ。


今の「知新寮」
私住んでいたのアパートの跡地










私のアパートの隣の棟
(まったく同じ作り)
 

 次に行ったのは、日立市を離れる前の11年間住んでいた日立工場の社宅・会瀬(おおせ)社宅。会社の自席まで歩いて10分程度の便利な場所にあった。当時はたくさんの社宅が軒を並べていたが、今は社宅の建屋そのものは全くなくなって、面積の3/4は新しい家が立ち並んでおり、私たち家族が住んでいた建物あとの周り一帯だけがまだ更地のままで草が生い茂っていた。私が少年時代を過ごした大牟田もそうであったが、ここも住んでいたころの名残は全くなくなっていた。
11年間住んでいた社宅の跡地(1)
11年間住んでいた社宅の跡地(2)











社宅ありし日の風景

 そのあと、神峰(かみね)公園に行ってみた。ここは、市の北部にあり、ちょっと小高い丘になっている。公園内には、遊園地や動物園などのレジャー施設もあり、頂上には二階建ての展望台もある。展望台からは日立市の中心部が一望できる。ここの公園には、子供たちを連れてよく遊びに来たものだ。また、公園内には、私がいたころにはなかったが、地元出身の作曲家・吉田正の記念館が出来ていた。


かみね公園の案内図
展望台から日立市中心部を望む












友好都市のアメリカのバーミングハム市
から送られた「バルカン像」
展望台














吉田正音楽記念館
吉田正の胸像とマネキン











 次は、私が住んでいた当時日立市の一番の繁華街であった「日立銀座通り」に行ってみた。ここも、大牟田の銀座通り程ではないにしても相当の寂れようだ。土曜日だと言うのにほとんど人通りがない。











 その次はJR常陸多賀駅に行ってみた。ここは、以前とあまり変わっていない。常陸多賀駅前通りは以前から、電信柱がなく非常にすっきりしたあか抜けした通りであり、私の好きな場所でもあったが今回来てみても印象は同じであった。



常陸多賀駅前
常陸多賀駅前通り










 そのあと、日立市の南部にある「みかの原団地」に行ってみた。ここには、私が成沢アパートを出て会瀬社宅に移るまでの5年ほど住んだ家が残っている。しかし、私が出た後に入った人もいずれかに転居してしまい、家そのものは荒れ放題になっていた。さびしい限りである。

かって住んだみかの原団地の家


 以上、水車のOB会に出席したついでに、思い出の場所をレンタカーで駆け足で回ってきた。日立も人口が減少に転じているようで最盛期には21万人ぐらいだったと記憶しているが、今は19万人を切っているそうだ。日立の銀座通りや駅前のイトーヨーカドーを見ても、元気がない。大牟田は、炭鉱が閉山してしまったので人口も約半分になってしまったが、日立の場合は、日立工場(今は、日立事業所というみたいだが)がなくならない限り大丈夫だとは思うが、これも日立製作所の思惑でどうなるか分からない。現に、私が奉職をした水車の部門は一昨年、三菱の水車部門と合体し、日立製作所から独立した「HMハイドロ」という別会社になっているし、火力部門も三菱との合体で別会社になっている。まさに、「一寸先は闇」であるが、日立の重電部門が勢いを盛り返し、日立市に昔の活気がよみがえることを願い祈るばかりである。


2013.5.27
   Yukikaze


2013/05/20

初めての歌会(2013.5.20)

 5月18日(土)、コスモス短歌会の浦和支部の短歌会に初めて出席した。場所は、北浦和駅の西口から歩いて5分ほどの北浦和公園内にある恭慶館という施設である。この恭慶館は、茶道や華道、俳句をはじめとする文芸活動や伝統文化の拠点としてさいたま市の文化振興事業団が管理・運営している施設である。このほかにも北浦和公園内には、埼玉県立近代美術館もある。

北浦和駅西口
北浦和公園








埼玉県立近代美術館
恭慶館












 歌会は、この恭慶館で13時から始まった。今日の出席者は初参加の私を入れて17名、男性6名、女性10名であった。まず、事前に提出しておいた各自一首ずつの短歌(すなわち17首、ただし、どの歌が誰の歌かは伏せてある)の中から、自分の評価する歌を三首選んで記名投票。そのあと、コスモス誌に掲載された各自の歌を一首ずつ紹介し、出席者全員で批評しあう。次に投票結果が発表され(まだ、どの歌が誰の歌かは伏せてあり、一番最後まで分からない)、その歌に投票した人が、なぜその歌に投票したかを述べる。また、意見のある人は自由に自分の考えを述べる。というようにして、歌会は進み、終了したのは16時45分ごろであった。私が提出しておいた歌は、

 「 菩提寺の納戸に過去帳繰りており遠きみ親の世をおもいつつ 」

であったが、得票数は、4票。この内容に共感したという方もいたが、「お寺の納戸に収納されている膨大な過去帳にもう少し焦点をあてて詠んだ方が良かったのではないか」などの意見も出されていた。 なお、最高得票の歌は、Tさんの

 「 図書カード定規はがきを栞とし読みさしの本四、五冊のあり 」

であり、得票数は、8票であった。

 なにはともあれ、初めての経験であり、最初のうちは多少緊張したが無事に終わりいい経験になった。特に、自分がいいと思ったものと、ほかの出席者がいいと思ったものとが一致しないのは、ある程度はやむを得ないとしても、私一人しか投票しなかった歌があったのには、少々考えさせられるところがあった。また、この会そのものは、コスモス短歌会の選者にもなられている超ベテランの方が2名おられるなどかなりの上級者の方たちもたくさんおられたが、気さくに意見を述べ合うこともでき非常にいい雰囲気であり、出来るだけ参加していきたいと思った次第である。

 この歌会は毎月原則第三土曜日に開催されており、次回は6月15日の予定だそうだが、私は、祖母の三十三回忌が実家のある徳島で6月16日に予定されており(というより、この6月16日は以前に私が決めたものであるが・・・)、残念だが欠席せざるを得ない。

 なお、この短歌会とは関係のないことであるが、この6月15日には「さくら会」の「ピクニック」が催されるとの連絡もきた。上記の理由で、こちらの方も欠席せざるを得ない。私の家内は、昨年2月に東京小金井市にある桜町病院のホスピスで亡くなったが、「さくら会」とは、このホスピスで亡くなった方の遺族のうち有志の方々で作っている親睦会であって、年に3回~4回のイベントを実施しているそうであり、この6月15日のピクニックは、私にとっては最初のイベントになるはずのものであった。




2013.5.20
   Yukikaze


2013/05/19

日々の風景 -短歌教室(添削)(2013.5.19)

 先週の金曜日、5月17日に浦和ロイヤルパインズホテルB1Fで「よみうりカルチャースクール」の第27回目の短歌教室があった。この5月17日は、昨年の5月18日に私がこの短歌教室に初参加してちょうど1年目、27回目である。 今後も頑張って息長く続けていきたい。

 今回は、先月の20日から25日にかけて、九州・大牟田を20数年ぶりに音連れた時に感慨を詠んでみたものであったが、跡かたもなく治されてしまった。

(1) 尋ね行きし筑後の国の家跡に思い出に残る何物もなし
 ・ この歌は、いろいろと説明を聞かないと内容が理解できず、抽象的すぎる
 ・ 「筑後の国」などという古い言葉は使わないようにすること
 
 ・ いつ頃まで住んでいて、今はどこに住んでいるのか

→ → → 尋ね行きしがかって住みにし家はなく野菊の花のあふれ咲くのみ


(2) 不知火小廃校となりて同窓の四人の語りあかとき尽きず
 ・ 廃校となったのはわかるが、建屋は残っているのか
 
 ・ なぜ四人なのか、同窓会だったら、もう少し多いのではないか
 ・ また男同士なのか女性もはいっているのか
 ・ 「あかとき尽きず」という言い方はしない。言うなら「あかときまで尽きず」と言うべき
 ・ 一晩中語り合った、語り合って夜が明けてしまった、という言い方に工夫すべし

→ → → 廃校となりし不知火小学校のかっての同窓生四人と酒飲む

→ → → 母校なりし不知火小の同窓の男四人と久々に飲む

→ → → 小学校の同窓生四人と久々についに夜明けまで汲みかわしたり


(3) 年を経て会いし友らも老いにけり口づてに聞く訃報の多し
 ・ 「訃報の多し」という言い方はしない。
 ・「老いにけり」とあるがまだ70歳前であれば、言い過ぎ

→ → → 久々に会いたる友ら老(ふ)けていて聞けばすでに亡きひと多し

→ → → 久々に会いたる友ら老けていてすでに亡きひと多しとぞ聞く


今日も随分と自信を持って提出した歌だったが、御覧のように見るも哀れな結果になってしまった。先生の指摘をよくかみしめて、今後に反映させていきたい。

先生の全体評 :
  「 筋書きだけの歌では困る。バックに潤いを持たせた歌を心掛けること 」 と

私の歌ではないが、Mさんの歌 :
 「 ヒヨドリが運びくれしか心当たりなき草花の庭に咲きおり 」

→ → → 野の鳥が運びくれしか種をまこしはずなき万両の花庭に咲きおり


2013.5.19
   Yukikaze

2013/05/17

大牟田おもいで紀行(5/5)(五日目、4月24日 & まとめ)

 24日は、ホテルを朝9時30分ごろに出て、少し博多駅前をブラついてから、博多駅から福岡空港へ地下鉄で行った。博多の駅前は、私が学生時代を過ごした時代からみるとまったく様変わりしている。変化の内容については私は語る資格がないので、割愛します。

はかた駅前通り
博多駅









 

 地下鉄を降りて飛行場へ向かっている時であった。後ろから突然肩をポンポンと叩かれた。どうせ何かの人違いだろうと、振り返ると、「△△(私の本名) さんですよね、○○です」、と言うので相手の顔をよく見ると、なんと私の長男の親友のO君ではないか。びっくりしたが、本人であることは間違いない。出張で、福岡に来てこれから帰るところです、という。2分~3分立ち話をして、近くにいた佐川急便のお兄さんに頼んでデジカメのシャッターを押してもらった。とにかく悪いことはできないものだ。日本国中、いや世界中どこに行っても、どこで誰に会うか分からない、ということみたいだ。

O君と福岡空港で

 帰りの飛行機は、11時50分発のスカイマーク航空。羽田到着は、13時25分の予定だったが、出発がかなり遅れて荷物を受け取ってゲートを出てきたのは、14時30分ごろであった。接続が悪く、モノレールで天王洲アイルまで行き、そこで埼京線直通の臨海線に乗り換えて武蔵浦和に着いたのは16時30分を回っていた。駅前で買い物などをして、家に帰着したのは17時を過ぎていた。

 まとめ :
 今回は、ふと思い立って4月20日からの4泊5日の旅行であった。 当初計画した時は、さらに2人の旧友と会いたいと思っていたが、当人の都合で実現できなかった。しかし、11人の旧友およびそのうちの3人はその奥さんにまで会え、心行くまで歓談をし旧交を温めることができて本当によかったと思っている。また、福岡の発展ぶりと、その逆に大牟田の凋落ぶりを目の当たりにして、気が重くなったのも事実である。ケアハウスの駐車場になっていた、生まれてから19年間を過ごした家の跡地や一面の段々畑だったところにびっしりと家が立ち並んでいる光景にもびっくりしてしまった次第である。桑田変じて大海となる、という言葉があるが、そこまではいかないにしても、変われば変わるものである。しかし、一度は訪れたいと前々から思っていたこともあり、現実を見て、それはそれでやっと気が済んだ、というのが本音である。当然私も旧友たちも年々歳をとってきているわけであるし、これから何回会えるかわからないが、お互いに健康に留意し機会を見てまた会おう、と約束をしてきた次第である。
 最後に、大牟田の夏祭りの花「大蛇山」の写真と大牟田駅前にある獅子の像「希望の泉」を掲載してこの「大牟田おもいで紀行」を終わりたいと思います。

勝立大蛇山(大牟田温泉内に展示)
本宮彌劔神社の大蛇山
大牟田駅前の「希望の泉」

2013.5.17
   Yukikaze

2013/05/16

大牟田おもいで紀行(4/5)(四日目、4月23日)

 23日は久留米経由で福岡に戻る予定。 8時過ぎにホテルを発って、昨夜T君から招待されていたので、まずT君の自宅に向かう。彼の家は大牟田の北の方にあって、これから久留米、福岡と向かうには都合がいい。彼は会社を退職後、郷里の大牟田に帰り好きなお茶の先生をやっているらしい。玄関から茶室への通路も木々がこんもりとしていて趣深い。にじり口から入って、お茶をふるまってもらった。そのあと小一時間ほど奥さんも入って、思い出話や世間話などリラックスした時間を過ごした。

T君の茶室へのアクセス
T君の茶室でT君と











 T君の家を10時過ぎに辞して、一路久留米に向かった。13時30分に大津留先生と母校の久留米大学附設高校で会う約束であり、あまり時間もなかったがそれまでの時間を利用して「石橋美術館 http://www.ishibashi-museum.gr.jp/ 」に行くことにした。東京の八重洲口に「ブリヂストン美術館」があるが、ともにブリジストンの創業者石橋正二郎が創設した姉妹館だとのことである。館内には、地元出身の青木繁の「わだつみのいろこの宮」や「海の幸」、坂本繁次郎の「放牧三馬」、地元出身ではないが、黒田清輝の「針仕事」、安井曾太郎の「薔薇」、藤島武二の「天平の面影」などびっくりするような名画がずらりと展示してある。高校時代に何回か来たことはあったが、今改めてその内容・レベルの高さを再認識した次第である。


石橋美術館正面
石橋美術館の庭園









世界の人々の楽しみと幸福のために
石橋美術館寄贈碑











青木繁
わだつみの
いろこの宮

青木繁 海の幸
安井曾太郎
薔薇
藤島武二
天平の面影

 13時ごろにこの石橋美術館を後にし、母校の久留米大学附設高校 http://www.mii.kurume-u.ac.jp/fusetsu/ に向かい、同校の「同窓会室」で大津留先生と面会した。大津留先生は、私が在学した1960年から1963年(昭和35年~昭和38年)時にはおられなかったが、その後国語の先生として赴任されたそうである。先生は、短歌に造詣が深く、附設の先生時代から現在に至るまで短歌の普及・啓蒙および後進の指導に非常な熱意を持ってあたられており、現在もそれは続いている。毎年宮内庁が主催している「歌会始の儀」に先生が指導されている久留米付設から、3名の生徒が預選歌として入選しており、また、先生ご自身も、平成9年の「歌会始の儀」に下記の歌が預選歌となっている。

  『 あかときのひかりのなかに髪を梳(す)く白寿の母の姿しづけし 』  
                     福岡県 大津留 敬   平成九年一月十四日

 一時間ばかり短歌のお話をメインに、現在の状況や苦労話などをお伺いした。なお、大津留先生に関しては、先生を慕う久留米附設の卒業生有志で作っている、「大津留学校」なるものがあって、毎年1回~2回、先生の上京の折を見て、講演会や先生を囲む会などの催しを行っているようである。

 さて、母校である久留米大学附設高校は、いまは、男女共学の中高一貫校となって、立派な校舎が建ち並んでいるが、私が通っていたころ(今から53年前)は、高校のみの男子校であった。場所も久留米大学商学部の敷地の片隅の兵舎跡であり、中央に通路があって、両側に教室がある古い建物であった。今は、その校舎あとは久留米大学のテニスコートになっている。私は大牟田の家からバスに乗って西鉄大牟田駅まで行き、そこで西鉄電車に乗り替えて西鉄久留米まで行き、そこからまたバスに乗って商学部前まで毎日通ったものである。多分、片道1時間半はかかっていたものと思うが、記録を見てみると、私は皆勤賞をもらっている。よく通ったものだと今更感心する。この高校では、その後の生き方や考え方に影響を与えた、重要ないろいろなことを教えてもらった。目をつむれば、当時の先生方の熱心な講義の様子がまざまざと眼に浮かぶ。


久留米大学附設中学校
高等学校校舎
校舎への道









校歌
大津留先生と












 大津留先生と別れた後、久留米で九州自動車道に入り途中から福岡高速に入って、大野城で高速を下りた。そこから、M君の家の前まではナビでスムーズにたどり着くことができた。M君は、大牟田の延命中学校の3年生の時同じクラスだった仲だ。長く郵便局に勤めて、今は悠々自適の生活。彼の結婚式の時の司会をやったのは44年も昔のことだが、昨日のことみたいだ。一旦、家にお邪魔をして、奥さんも含めて一時間ほど3人で思い出話に花を咲かせた。奥さんとはそれこそ44年ぶりだが、なんとなく記憶がよみがえったような気がするし、彼女も同じようなことを言っていた。奥さんも同じく郵便局に勤めていた由。一時間ほどして、M君と二人で私のレンタカーで福岡に出発した。まず、本日の宿泊ホテルである「コートホテル博多駅前」にチェックインをして荷物を預け、そのあと天神のバジェットレンタカーにこの二日半お世話になったレンタカーを返却。この時点で、19時ちょうどであった。それから、二人で近くの居酒屋に入り、2時間半ほど飲みながら歓談。彼のことは大体知っているつもりであったが、彼が海釣りが趣味で、それが昂じて二級小型船舶操縦士免許をとっているとは知らなかった。小型船を借りて、よく沖釣りに行ったそうだ。沖釣り用の小型船を購入しようかとも、考えている由。いろいろな話で盛り上がり本当に楽しいひと時を過ごすことができた。名残惜しいが、9時半ごろに天神で彼と別れて、私はタクシーで宿泊の「コートホテル博多駅前」に戻った。


23日の宿泊の
コートホテル博多駅前
M君と













 これで、友人と会う計画をしていたものは、すべて予定通り無事終了したことになる。ところが、明日の朝、福岡空港でビッグサプライズが待ち受けていた。


2013.5.16
   Yukikaze